大逆事件の遠因を作った山県有朋
ここで、いわゆる桂園時代つまり桂太郎と西園寺公望が交互に政権を「担当」したときの出来事をまとめておこう。
こうして並べてみると一目瞭然だが、結局西園寺内閣というのは桂内閣になにか問題があったときの「つなぎ」のように「使われて」いたことがわかる。桂園時代と言っても桂の総理通算在職日数が二千八百八十六日におよぶのに対し、西園寺の通算在職日数は千四百日(データは首相官邸ホームページによる)で、桂の半分に過ぎない。
前にも述べたが、この桂の在職日数は安倍晋三総理に抜かれるまで歴代最長であった。「使われていた」という表現は穏当では無いかもしれないが、山県‐桂ラインは自分たちこそ正統な内閣である、と自任していたようだ。なぜそれがわかるかと言えば、第一次西園寺内閣時代の一九〇八年(明治41)六月に起こった赤旗事件の顛末がそれを物語っているからだ。
〈赤旗事件 あかはたじけん
明治後期の社会主義者に対する弾圧事件。錦輝館(きんきかん)事件ともいう。1908年(明治41)6月22日東京・神田の錦輝館における山口義三(ぎぞう)出獄歓迎会の終了まぎわ、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の直接行動論を支持する大杉栄(おおすぎさかえ)、荒畑寒村(あらはたかんそん)ら一派の者が、議会政策派への示威のため「無政府共産」「無政府」の文字を白テープで縫い付けた2本の赤旗を翻し、革命歌を歌い、無政府主義万歳を叫び、場外に出たところ、旗を巻けと命ずる警官隊との間で乱闘となった。結局、大杉、荒畑、堺利彦(さかいとしひこ)、山川均(ひとし)、管野(かんの)スガら16人が検挙された(うち2人は即時釈放)。山県有朋(やまがたありとも)系勢力はこれを大事件につくりあげ、社会主義取締りに比較的寛大であった第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣を辞職に追い込み(7月)、第二次桂(かつら)太郎内閣は社会主義取締りを強化する態度を打ち出した。8月29日東京控訴院は検挙者のうち10人に重禁錮2年半以下の重い実刑判決を下した。そしてこれが契機となり直接行動派内にテロリズムの傾向を生み、大逆(たいぎゃく)事件の遠因をなした。〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者阿部恒久)
要点はおわかりだろう。そもそも過激派も穏健派も区別せずに、「ダメなものはダメ」という頑なな姿勢を取っていたのが山県‐桂ラインとその所属する陸軍であった。それに対して自由な言論および政治活動の価値を知っていた西園寺は、伊藤の暗黙の了解のもとに穏健な社会主義は認める方向性を打ち出していた。だからこそ山口義三出獄歓迎会も官憲の妨害無く開くことができた。
しかし政府と妥協することは運動の敗北だと信じる過激派は、文中にあるように示威行動で存在を誇示した。戦術としては稚拙と言わざるを得ない。「待ってました」とばかりに、山県は不本意ながら成立を認めていた西園寺内閣を総辞職に追い込んだのである。このとき幸徳秋水は故郷の高知に帰省しており逮捕の難を免れたのだが、結果的には刑務所行きとなった大杉栄や荒畑寒村に代わり、検挙されたが実刑を免れた管野スガとともに過激派組織を立て直す役割を果たさざるを得なくなった。