ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十話「大日本帝国の確立V」、「国際連盟への道3 最終回」をお届けする(第1370回)。
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二〇二二年(令和4)九月二十七日に執り行なわれた安倍晋三元総理の国葬において朗読された、友人代表菅義偉前総理の弔辞は多くの人の感動を呼んだ。その最後の一節で引用されたのは、安倍元総理が生前読んでいた山県有朋の評伝のなかにある短歌だった。
〈衆議院第一議員会館千二百十二号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を 偲んで詠んだ歌でありました。総理、いまこの歌ぐらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
かたりあひて 尽しゝ人は
先立ちぬ 今より後の
世をいかにせむ
かたりあひて 尽しゝ人は
先立ちぬ 今より後の
世をいかにせむ
深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当にありがとうございました。どうか安らかに、お休みください。〉
(菅義偉前総理の弔辞より)
これまで何度も述べてきたように、伊藤博文と山県有朋は政治に対する考え方がまったく違うライバル同士であった。何事にも慎重で手荒なことは避ける伊藤に対して、山県はそうでは無かった。日露戦争について「断固やるべし」だった山県に対し、伊藤は最後まで和平の道を探っていたことを思い出していただきたい(『逆説の日本史 第26巻 明治激闘編』参照)。
また、軍人は政治に関与してはならないという認識については共通だったが、その手段においては『軍人勅諭』という歯止めがあればじゅうぶんと考えた山県に対し、伊藤はまさに欧米流の「シビリアンコントロール」や新聞などの自由な報道を重視して多方面から監視すべき、という立場だった。さらに、『教育勅語』や『大日本帝国憲法』の「改正」も、あきらかに視野に入れていた。
しかし、山県は逆に政党の影響力が軍隊におよぶのを嫌って、第二次山県内閣の総理だった一九〇〇年(明治33)に、陸海軍大臣は現役の大将もしくは中将に限るという「軍部大臣現役武官制」を確立させた。ちなみに『教育勅語』は一八九〇年(明治23)、第一次山県内閣のときに出され、『軍人勅諭』はそれより前の一八八二年(明治15)に当時陸軍卿だった山県の発案によって出されている。要するに、すべて山県がらみなのである。
この「軍部大臣現役武官制」は、とくに昭和期においては「軍部が気に入らない内閣」をつぶす手段としておおいに活用されてしまったことは、昭和史の常識である。退役した元軍人ならともかく、現役の軍人はすべて陸軍および海軍の上層部の命令に従わなければならない。「首相の大命降下を受けた○○から陸軍大臣(海軍大臣)に就任要請されても、絶対に受けるな」と言えば内閣の成立は阻止できるし、成立してしまった内閣でも「陸相(海相)をただちに辞任せよ」と命令した上で「新たな就任要請を受けるな」とすれば、その内閣をつぶすこともできる。