元祖芸能一家として知られ、人々の関心を集めてきた高島ファミリー。その歴史は、忠夫さんがいまから約60年前に購入した土地に建てた自宅で紡がれた。子供の成長、独立、忠夫さんの活躍、そして病気──すべてを見守ったかけがえのない場所に、昨年末ある異変が起きていて──。
東京・世田谷の一画。高級住宅が立ち並ぶなか、ひときわ大きな邸宅がある。730平方メートルの敷地内に建つこの家に掲げられた表札は「高嶋」──だが昨年末頃からその豪邸はひっそりと静まり返り、窓にはシャッターが下りたままで、人気はない。
ここは2019年6月に亡くなった高島忠夫さん(享年88)の自宅である。忠夫さんが他界してから、この家には妻の寿美花代(91才)が住んでいたが、最近になって異変が生じた。
「寿美さん、もうあの家には住んでいませんよ。昨年末あたりに出て行かれたようです。忠夫さんが亡くなってからも、ずっとひとりで暮らしていたんですけどね……」(近隣住民)
最愛の夫の死からおよそ3年8か月。過ごせるうちは自宅にいたい、という寿美の思いは強かった。宝塚の男役トップスターだった寿美は1963年に「歌う映画スター」として人気を博していた忠夫さんと結婚。1965年に高嶋政宏(57才)、1966年に高嶋政伸(56才)が誕生した。
その後、息子2人は俳優として活躍。高島ファミリーは芸能界きっての仲よし家族として知られるようになったが、1998年に68才だった忠夫さんがうつ病を発症すると、一家の生活は激変した。
「うつ病となった忠夫さんは突如、芸能活動を休止しました。映画や舞台、テレビ番組の司会など多方面で活躍していた彼が、病の発症とともに急に白髪が増え、やせて変わり果ててしまった姿は、世の中に衝撃を与えました」(芸能関係者)
忠夫さんは2003年に芸能界復帰を果たしたのちもパーキンソン病や不整脈を患い、心臓にペースメーカーをつける大手術を受けた。2013年に放送されたドキュメンタリー番組では、やせ細った忠夫さんが会話中に眠り込むなど生々しい姿をさらけ出し、大きな反響を呼んだ。しかし、どんなときも夫を支え続けたのが妻だった。
「忠夫さんは80才を過ぎてから入退院を繰り返し、足元がおぼつかなくなりましたが、寿美さんは『私が面倒を見たいの』と言って、施設に預けることなく自宅で老老介護を続けました。忠夫さんの1つ年下の寿美さんも年齢を重ねて体が思うように動かなくなるなか、ホームヘルパーと協力しながら、長い間頑張っていたんです」(高島家の知人)
2019年、忠夫さんはこの世を去った。息子2人は臨終に間に合わず、忠夫さんを看取ったのは、寿美だけだった。翌日、自宅で密葬を行った際、寿美は気丈に振る舞ったが、火葬場には行けなかったという。当時の寿美の様子を、政宏は『女性自身』(2019年7月16日号)でこう語った。
《落ち着いていたように見えた母ですが、父を失ったのはつらかったのか、火葬場には来なかったんです。『火葬場には行けない、行きたくない』と。『(亡きがらを)焼くのは、物質的なことにすぎないから。お父さんとは気持ちと気持ち、心と心がつながっているのだから、家でお父さんのことを思っている』、そんなことを言っていました》
心がつながる夫と悲痛な別れをした寿美は、その後、大邸宅にひとりで暮らし始めた。
「がらんとした家にひとりでいると忠夫さんがいなくなった悲しみが日増しに大きくなり、心身ともに老いが進行しないか周囲は心配していました。それでも寿美さんは忠夫さんと一緒に過ごした自宅を終の棲家とすることを望み、通いのお手伝いさんに面倒を見てもらいながらひとりで暮らしていました。
ここ数年は杖をつきながらでしたが、お手伝いさんと自宅近くを散歩したり、行きつけのお店に顔を出したりしていたみたいですよ」(前出・高島家の知人)