“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第13話では浪人中に将来の「職業」に出会った瞬間が明かされる。【連載の第13回。第1回から読む】
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第13話「予備校生活」
駿台予備校の歴史は古い。
東京外国語大学卒業後に米国に留学、ハーバード大学やアマースト大学で英語学、英文学を修め、帰国後は明治大学教授となる山崎寿春が、1918年に神田錦町に設立した東京高等受験講習会がその前身となる。
1927年には神田駿河台に駿台高等予備学校を設立、戦後の1952年に学校法人駿河台学園として多角的な学校経営に乗り出した。中でも大学予備校はベビーブームも相俟って入学希望者が殺到し、東大合格者の3分の1前後を駿台予備校出身者で占めるようになると「国公立と有名私立に強い」という評判は完全に定着した。
受験戦争真っ只中の1972年度を例に挙げると、東大合格者数3063人中1242人が駿台予備校出身で、最難関の理III(医学部)に至っては90人中44人。2022年度も1362名もの合格者を送り出している(グループ関連法人の在籍生及び各講習受講生も含む)。
「早慶や国立二期校にうかっても、それをふって東大に行きたいという学生がかなり来ていますよ。受験生の水準が非常に高いから、うちに入学すれば、国立や有名私立はまず間違いないでしょう」(駿台予備校教務部次長だった伊藤力/『週刊読売』1973年4月14日号)
1973年に理IIIに合格した浪人生は、次のように証言している。
「小手先の授業ってありませんね。いわゆる受験校よりも、内容は基本的なことをガッチリやっていますね。暗記中心よりも、基本的な考える力をつけていこうとする授業ですから、ぼくなんか、高校のときより授業がおもしろかったな」(同)
好奇の目に晒されても「勉強に集中」
国際基督教大学(ICU)を志望しながら現役合格はならず、浪人を選択した18歳の田中敬子が、横浜駅前の予備校には見向きもせず、御茶ノ水の駿台予備校を選んだのも、高い合格率に惹かれたからなのは言うまでもなく「伝統的に英語に強い」という評判も無視できなかったからだ。