1970年当時、一般にはほぼ無名に近かった岩佐又兵衛や曾我蕭白、伊藤若冲らの再評価に挑み、近世絵画の見方そのものに影響を与えた、辻惟雄氏の画期的名著『奇想の系譜』。いわば昨今の若冲人気の火付役と言っていい辻氏は、自身の90年の来し方をまとめた本書に『若冲が待っていた』と、あえて受け身のタイトルをつける。
「皆さん、さも私が独自の嗅覚で又兵衛や蕭白や若冲を見つけてきたようにおっしゃるけど、そうじゃないのね。むしろ彼らの方からやってきた感じなんです」
特に手柄を誇るでもなく、飄々とした氏の自己評価は、「例えば私の妻は結婚前に『彼はいい人だけど、相当スリルがある』と忠告されたらしいんです。自分でもまあまあ変人に近いという、自覚はありますね(笑)」。
前書きにも〈医者になり損ね、美術史という非生産的な学問を職業とした私は、金に縁が薄く〉などと自虐的に綴る氏は、それでいて〈精神的には豊かだった〉と振り返り、それこそ若冲達が待っていてくれるほど、縁に恵まれた人でもあった。
昭和7年、産婦人科医の父・都筑千秋と母・静江の次男として名古屋に生まれ、大叔父の姓を継いだ著者は、旧制岐阜中や都立日比谷を経て、東大理IIに現役合格。
と書くといかにも優等生風だが、幼少期のあだ名は〈めそめそピーピー〉。幼稚園で早くも無残な失恋をし、戦争や東海大地震の渦中でなお漫画や小説に熱中した少年は、やがて画家を夢見るように。駒場時代は美術サークルに所属するが、2年連続で留年し、画家の道も諦めかけた矢先、友人に〈文学部に美学美術史学科があるのを知ってるかい〉という情報を聞くのである。
「絵も医者もダメかと、背筋がゾーッとした折も折、とにかく相談に行ってみたんです。美術の歴史で食えるかどうかは知らないけど、何か面白そうだと思って。そしたら後の東洋美術の権威、米澤嘉圃先生がいて、『君、もったいないよ。考え直しなさい』って(笑)。それでもなんとか文学部に進学することができ、その年に神戸大から転任した山根有三助教(当時)とほぼ1対1の贅沢な環境で、まず又兵衛と出会います」
実は俵屋宗達や尾形光琳といった王道に、当初は憧れがあったとか。
「でもそんな学生は喜ばれない。レポートに宗達と書いただけで酷い点がつくんです(笑)。それで修士論文の時に勧められたのが、卒論でも触れた又兵衛でした。
又兵衛に関しては『山中常盤物語絵巻』の真贋論争というのが昭和の初めからあって、これは又兵衛作でないとするナシ派の代表が、後の藤懸静也東大名誉教授。一方のアリ派が昭和3年に神田一誠堂で『山中常盤』を発見し、家屋敷を抵当に入れてまで買った第一書房社主の長谷川巳之吉さん。実は又兵衛をやりたかった山根先生が藤懸氏の弟子なもんで、自分ではできないからって私に勧めた〈代理戦争〉だったんです」