多様性への理解やハラスメント対策が求められる今、メディアなど表現にかかわる者はそれらにどう向き合うべきなのだろうか。作家の甘糟りり子氏が最近、経験した出来事を通して、自らの考えを綴る。
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「正義やイデオロギーという酒は悪酔いしやすい」とは友人の言葉である。いわく、正義に酔ってしまうと、自分が正しくなくてもずっと正しいと思っている状態なのだという。自分が正しいから、正しくない相手には何を言っても何をしてもかまわないと信じ込む。挙げ句、相手を屈服させなければ気が済まなくなる。
思い当るふしはある。ハラスメントや多様性、差別について書いていると、「世の中のためになった」と達成感を抱くことが時々ある。すがすがしく気持ちのいい感覚だ。しかしプロを自覚するのなら、絶対にその快感を得るための原稿にならないよう常に自分を冷静に見ていなければならない。
先日、反面教師にしなければならないことがあった。某 WEB媒体で私の原稿が「多様性やハラスメントに触れる箇所について疑問が生じる」という理由で「掲載見送り」になった。映画『バビロン』についてのエッセイである。私はその媒体で映画についてのエッセイを不定期で連載していたので、試写会に足を運び、担当者に原稿を送った。編集部には事前に『バビロン』の情報は送ってある。なんのやりとりもないまま四日後に「原稿料は支払うが、掲載見送り」をメールで告げられた。
『バビロン』とは『ラ・ラ・ランド』などで知られるディミアン・チャゼル監督の最新作で、日本では2月10日に公開になった。舞台は1920年代のハリウッド黎明期。時代的にハラスメントなどという概念は一切なく、エロ&グロの描写がところどころにあり、賛否両論を呼んでいるが、この作品を賞賛することがハラスメントや差別を肯定しているなどということなら、それは安直な言いがかりである。私はエロ&グロの映像も含めて作品を楽しんだし、時代の波の残酷さやそれに翻弄される人たちのせつなさが心に残った。
原稿では、劇中、中国人女性が時々タキシード姿で登場するのだが、それを「マレーネ・デートリッヒを思わせる」と形容したところ、編集部の担当者から「白人中心主義的」だと指摘があった。「白人中心主義」とはあまり聞きなれない言葉だが、文脈からいわゆる「白人至上主義」のこと同義と思われる(以下、それに則って、白人中心主義と書く)。
件の中国人女性はレディー・フェイ・ズーという役名で、主要キャストの三人にも負けないぐらい印象的なキャラクターである。ハリウッドで最初に名をなした中国人の女優アンナ・メイ・ウォンという実在の女優がモデルになっており、彼女は実生活でもデートリッヒと親交があったそうだ。媒体向けの資料にもこのタキシード姿について「デートリッヒ風」と記述がある。私もすぐにデートリッヒを思い出したので、そのように書いたら「白人中心主義的」と言われ、原稿の掲載を見送られたのだ。