ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十一話「大日本帝国の確立VI」、「国際連盟への道4 その3」をお届けする(第1373回)。
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第一次山本権兵衛内閣の外務大臣を務めた牧野伸顕は、大久保利通の実の息子であった。経歴は次のようなものだ。
〈明治から昭和期の外交官、政治家。文久(ぶんきゅう)1年10月22日薩摩(さつま)国(鹿児島県)に生まれる。大久保利通(おおくぼとしみち)の次男。牧野家を継ぎ、1871年(明治4)岩倉具視(いわくらともみ)らの遣外使節に父に同行してアメリカに留学。1880年外務省書記生としてロンドンに在勤中、伊藤博文(いとうひろぶみ)の知遇を受け、帰国後、福井・茨城両県知事、文部次官、イタリア公使、オーストリア公使を務めた。1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の文相、1907年男爵となり、その後、枢密顧問官、第二次西園寺内閣の農商務相のち文相を兼任、第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の外相、臨時外交調査委員を歴任した。1919年(大正8)パリ講和会議全権(以下略)〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者木坂順一郎)
つけ加えるならば、吉田茂元内閣総理大臣は女婿で、麻生太郎自民党副総裁(2023年2月現在)は曾孫だ。牧野は西園寺とも親しかった。つまり山本内閣は反陸軍、反山県の俊秀を集めた強力内閣であった。ただ、軍部大臣現役武官制改革に力を貸した木越安綱陸相は体調を崩して早々に辞任した。「陸軍の法王」山県有朋に強く叱責されたことが原因で、ノイローゼ状態という話もあった。
もし改革が行なわれていなければこの時点で山本内閣は崩壊した可能性もあるのだが、山本首相は陸軍の意向を無視して土佐出身の楠瀬幸彦中将を陸相に抜擢し、文官任用令の改正(自由任用の推進)によって法制局長官などそれまでキャリア官僚でなければ就任できなかったポストに積極的に優秀な人材を配置し、大逆事件を「推進」した桂太郎内閣とは反対に大日本帝国の「風通し」をかなりよくしたと言えるだろう。その背景には、このころから国家の元老として待遇されるようになった西園寺公望の強い支持があったのだが、それ以外にも山本には強い味方がいた。
〈山本内閣がこのような改革を行えたのは、桂が首相になるために内大臣を辞任した後に、伏見宮貞愛親王(陸軍大将)が内大臣府出仕(内大臣は空席)として、大正天皇の摂政的役割を果たしたおかげでもある。伏見宮は五四歳の働き盛りで、皇族筆頭の地位にあり、山本首相・原内相との関係も良好であった。また、三人は大正天皇との関係も良く、天皇は彼らの助言に従って、心理的な負担に苦しむことなく、天皇としての形式的な職務を果たした。〉
(『山県有朋──愚直な権力者の生涯』伊藤之雄著 文藝春秋刊)
このまま山本内閣が継続し、「政党嫌い」の山県有朋が弄した民主主義国家に対するさまざまな妨害策が排除されれば、大正期の日本は、いや大日本帝国はもう少しまともな道を歩んでいたかもしれない。また、昭和二十年の惨憺たる敗戦にもつながらなかったかもしれない。実際、山県はこのころ意気消沈し、中央政界からの引退を口にし京都の無鄰菴に引きこもった。日露開戦を検討したあの山県の別荘だ。実際、体調を崩していたという話もある。そのまま病死でもしてくれれば日本にとって大変よいことだったと私は思うのだが、実際は逆になった。
逆とはどういうことか? 山本権兵衛と言えば日露戦争のときには海相を務め、日本の運命を懸けたバルチック艦隊との対決の指揮官に、当時予備役を待つばかりだった東郷平八郎を起用したことでも有名だ。そのとき明治天皇が驚いてその抜擢の理由を聞くと、山本は「東郷は運のよい男ですから」と答えたというエピソードがある。司馬遼太郎の『坂の上の雲』でもお馴染みの場面だから、多くの人が知っている。
実際、東郷はあの日本海海戦においてツキまくっていたことは、『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』でも詳述したところだ。つまり、山本は人間の「ツキ」に関して信仰とも言えるような感覚を持っていたわけだ。ところが、皮肉と言えばこれ以上の皮肉は無いが、総理大臣としての山本自身はまったくツイていなかった。それどころか、歴代首相のなかでも山本はもっともツキが無い総理大臣ではないかと思われる。彼はこの第一次内閣が崩壊に追い込まれた後、言わば奇跡の復活を成し遂げ後年にも第二次内閣を作るのだが、その二つの内閣ともに山本には直接責任の無い不祥事でつぶれてしまったのである。