ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十一話「大日本帝国の確立VI」、「国際連盟への道4 その4」をお届けする(第1374回)。
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シーメンス事件をきっかけとして明るみに出た、戦艦『金剛』発注にまつわる日本海軍への贈賄疑惑。国民だけで無く、当の海軍も大きなショックを受けた。というのも、『金剛』とは帝国海軍の栄光を象徴する艦名だったからだ。このイギリスのビッカース社に仲介を依頼した『金剛』は二代目である。初代は明治十年代に僚艦の『比叡』、『扶桑』(ともに初代)などとともに日本がイギリスに発注した戦艦であり、一八七八年(明治11)にイギリスで進水した。
『金剛』は一八九〇年(明治23)、日本の紀州沖で遭難したオスマン帝国の軍艦『エルトゥールル』から救出された乗員を母国まで送って行ったことでも有名だ。のちに日露戦争の日本海海戦で活躍する秋山真之も、これで遠洋航海を初めて体験した。『金剛』はそののち日清戦争にも参戦したが、老朽化し一九〇九年(明治42)に廃艦となった。
二代目の『金剛』は、世界最先端のイギリスの造船技術を学ぶため一九一〇年(明治43)にビッカース社を通じて発注された巡洋戦艦である。戦艦の攻撃力と巡洋艦の高速性を併せ持ち、主砲は十四インチ(口径約35cm)と当時の最強艦で、それまでイギリスの最大の戦艦等級をあらわすドレッドノート級を日本では弩級(ド級)と訳していたが、これを超えるという意味で『金剛』は超弩級艦と呼ばれた。そして、この『金剛』は日本以外で建造された日本海軍最後の大型軍艦となった。
これ以後日本は『金剛』をモデルに『霧島』『比叡』『榛名』といった主力艦を建造し、やがて独自の技術を開発して『長門』『陸奥』『大和』といった旧国名を艦名とする国産の超弩級戦艦を建造するようになる。しかし『金剛』も改造によるスピードアップに成功し、アメリカとの戦いではミッドウェー海戦にも参戦したが、一九四四年(昭和19)、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃で撃沈され任を終えた。相当に優秀な戦艦であることがわかるだろう。
じつは、現在の海上自衛隊にもイージス艦の艦名(平仮名書きで『こんごう』)として継承されている。太平洋戦争でも活躍したぐらいだから、戦艦『大和』以前の海軍においては花形艦で、海軍にとどまらず日本の誇りでもあった。この建造に絡む贈収賄事件、「金剛・ビッカース事件」の概略は次のようなものである。
〈第二次桂内閣当時、斎藤海軍大臣は艦艇補充計画実施にあたって、外国というより、イギリスの造艦技術導入の目的から、巡洋戦艦四隻──「榛名」「霧島」「比叡」「金剛」──の一隻である「金剛」をイギリスの造船所で建造することとし、ヴィッカース社とアームストロング社に見積もりさせた。ヴィッカース社の日本総代理店は三井物産で、アームストロング社はたしか高田商会だった。ところが、海軍の受注成績はいつも高田商会がすぐれていた。そこで三井物産は、予備役造船総監松尾鶴太郎を技術顧問として艦政本部に働きかけていた。海軍省は、たまたま造船総監近藤基樹と藤井光五郎機関大佐が英国造船協会記念式典で渡英したので、見積書をチェックさせたところ、ヴィッカース社が材料もすぐれ価額も低廉であることが判明した。藤井機関大佐は、その旨を松本艦政本部長に報告した。さらに、イギリス駐在造船造兵監督官加藤寛治中佐からも同じ意見具申があったので、海軍当局は慎重な検討を加えた結果、ヴィッカース社に発注する方針をかためるに至ったが、明治四十三年(一九一〇年)八月ころには、海軍当局の肚もまだどちらとも決まっていなかった。そのころ三井物産技術顧問松尾鶴太郎は、艦政本部長海軍中将松本和が明治四十一年(一九〇八年)、横須賀海軍工廠長の当時、造船部長として仕えたので、両名の間はとくに昵懇なのを奇貨とし、松本中将が請託を容れる意向のあることを察知して、三井物産の陸海軍用達を担当する重役岩原謙三に、「もし運動が奏功してヴィッカース社が受注したならば、海軍にいる友人に謝礼として、三井物産がヴィッカース社から受け取る口銭の三分の一を分与されたい」と懇請し、その承諾を得て、その旨松本中将に伝え、代金の二十五パーセントにあたる金四十万円を贈賄したというものであり、松本中将は、事件発覚当時は呉鎮守府司令長官で、次期海軍大臣の有力な候補にあげられていた。〉
(『史話・軍艦余録 謎につつまれた軍艦「金剛」建造疑獄』紀脩一郎著 光人社刊)
この著者は、在野の海軍史家と呼ぶのが一番適切だろう。海軍出身では無いが「海軍愛」の強い人で、この著書も公平な第三者というよりは「海軍弁護人」の弁としてとらえたほうがいいと思うが、実際の刑事裁判でも検察側の主張より弁護側の主張のほうが理に適っている場合があるように、その主張には聞くべきものがある。