俳句では、「桜」は「春の季語(季題)」であり、「花」といえば「桜」を意味する。だが、そうしたルールに従った表現は、果たして本当に「自然」なのだろうか──。そんな疑問から発して、より自由な表現を追い求めたのが、「自由律俳句」だ。
自由律を代表する俳人といえば、種田山頭火(たねだ・さんとうか1882-1940)と尾崎放哉(おざき・ほうさい1885-1926)の名が挙げられるが、2人の師であり、自由律俳句のリーダー的存在だった荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい1884-1976)は、自らが創刊した俳句誌『層雲(そううん)』の第一句集『自然の扉』で、こう述べている。
〈従来の季題は句作の対象に縄張りをしたものである。[中略]季題では霞は春、雷は夏のものときめてある。けれども夏に霞の立つこともある。冬に雷の鳴ることもある。我々はその時の鮮やかな印象だけを表わすべきである。〉
山頭火の春にまつわる名句を、話題の新書『孤独の俳句』(金子兜太・又吉直樹共著)から厳選して紹介する。
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長く厳しい冬の寒さから解放される春は、旅立ちの季節でもある。
「放浪の俳人」と言われ、何年にもわたる行乞(ぎょうこつ)・流転の旅を繰り返した山頭火は、1934(昭和9)年、早春に信州への旅に出る。そこで詠まれたのが次の句だ(解説は金子兜太氏による。以下同)。
「菜の花咲いた旅人として」 山頭火
〈1934(昭和9)年3月24日の句。この前々日、山頭火は東へ向かって少し長い旅に出た。其中庵(ごちゅうあん/山口県小郡にあった山頭火の住居)在庵中に4回長い旅をしているが、これはその最初の旅で、旅立ちの句だ。旅人としていま自分はここにいる、菜の花の黄色いひろがりのなかを歩いている。どこか頼りない感じだが、さあ旅だという気持ちなのだ。この旅では信州飯田で急性肺炎にかかり、4月21日に病院へ担ぎ込まれた。28日まで入院し、旅を中止した。このころ山頭火は病みがちだったようで、それもまた彼を憂鬱にさせる原因になっていた。〉
信州に向かったのは、敬愛する俳人、井上井月(せいげつ)の墓参のためだった。だが、4月の木曽・信州はまだ雪深かった。山口では菜の花が咲き、春の息吹が広がっていたのに、信州の山奥で雪に阻まれた山頭火は、墓参を断念せざるを得なかった(地図を参照)。