自由律俳句の代表的な作者の一人、尾崎放哉(おざき・ほうさい1885-1926)。今年も終焉の地となった小豆島(しょうどしま)で、命日の4月7日に合わせて「放哉忌」が行なわれる。
その才能にいち早く注目し、没後すぐに句集を編んだ師の荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい1884-1976)は、放哉の作品こそ「本当の俳句」だと絶賛した。
〈いわゆる「俳趣味」という既成の見方からすれば、俳句らしくなくとも、その作者のもつ自然の真純(しんじゅん)さが出ていれば、それこそ本当の俳句だ、と私は思う。而(しか)して、そのような本当の俳句を故尾崎放哉君に見出したのである。〉(尾崎放哉句集『大空(おおぞら)』井泉水による序より)
ここでは、最晩年に詠まれた放哉の名句を、話題の新書『孤独の俳句』(金子兜太・又吉直樹共著)の中から紹介する。
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尾崎放哉は、1926(大正15)年の4月7日、香川県の小豆島で亡くなった。享年42。
その数年前に発病した肋膜炎(ろくまくえん)が悪化し、肺結核に冒された末の病死だった。放哉の代表句の一つ、「咳(せき)をしても一人」は、病床にあった自分自身の世界をわずか9文字で切り取った作品である。職を失い、妻と別れ、無一物になった放哉は、流れ流れてこの島に辿(たど)り着いたのだった(地図を参照)。
「海が見たい」──終(つい)の住処(すみか)となった小豆島の「南郷庵(みなんごあん)」で、放哉は最期にそう希望したという。この庵には、海が見えるような位置に窓があった(解説は又吉直樹氏による。以下同)。
「海が少し見える小さい窓一つもつ」 放哉
〈放哉は海が好きだった。小さくても海が見える窓を部屋に持てたのは嬉しかったことだろう。須磨寺時代には、「何か求むる心海へ放つ」という句を詠んでいる。自分が抱えきれないものを引き受けてくれる海を頼もしく感じていたのだろう。病で海に行けなくなってからは、「やせたからだを窓に置き船の汽笛」という句を詠んだ。その一つの窓は放哉と海を繋ぐ重要なものでもあった。〉
この句そのものは、季節に関係なく、ただ放哉の住まい方を伝えているにすぎない。だが、息を引き取る間際に開かれた窓から、春の空気が入り込み、その向こうに瀬戸内の海が見えていたとしたら……そんな想像をたくましくしてみれば、春の気配が優しく感じられる。