甘いマスクと、ド迫力のハスキーな歌声のギャップで人気の若手演歌界の旗手・真田ナオキ(33才)。その若さで「5人の子持ち」であることを『女性セブン』の直撃取材に告白すると、大きな反響があった。さらに衝撃的なのは、デビュー前の“無頼の日々”や、下積み時代の苦労を語ったこと。さわやかなルックスながら、「暴走族の総長」だったという過去とのギャップこそ、彼の歌声の凄みの原点なのか――。
真田がメジャーレーベルに移籍する前に初めてCDをリリースしたのは2016年、26才のとき。吉幾三が手がけた『れい子』で”大型新人”としてデビューしたが、演歌の無名の新人になかなか仕事はなく、自ら1枚1枚CDを手売りする日々が続いた。真田が語る。
「デビューのお話をいただいたのは離婚の翌年で、決まったときは嬉しかったですね。当時は演歌のことはほとんどわからなくて、カラオケでは175Rとか湘南乃風とか流行りの歌を歌っていたんです。
いざCDを出すことができても、それからが大変で、飛び込みでスナックやカラオケ喫茶を回っても、『こんなのいらねえよ!』と突き返されてしまう。そんなときに、ありがたかったのは師匠の存在です。『誰が作った歌なの?』と聞かれて、『吉幾三さんです』と答えると、『じゃあ聞いてみようかな』と手に取ってくれる人が多かったんです。
何度も足を運ぶうちにお店の方から『また来てよ』と声をかけていただけるようになり、お車代やCDが売れるたびに入る歩合を少しずつ貯めて養育費に充てました。いま振り返れば、あの頃が一番しんどくて、必死に働いていた時期かもしれません」
デビュー前に、真田が声に特徴を出すために無理やり喉を潰したエピソードはつとに知られる。唐辛子をおやつがわりに食べ、アルコールを受け付けない体にもかかわらず、飲めない日本酒でうがいをして、誰もが印象に残る独特なダミ声を作った。
「もともと線が細くて中性的な声だったので、演歌を歌いたいと言っても、何人もの先生から『才能がない』と言われてしまったんです。個性を出すためにやったこととはいえ、いま思えばかなり無茶をしてしまったなあと。病気をしたり、ポリープができなかったのは運がよかったとしか言いようがありません」
体力と根性だけは誰にも負けない自信がある、と真田は言う。幼少時から野球や空手、ボクシングに熱中し、少年野球では日本選抜チームに抜擢されたこともあった。
「当時はサッカーの全盛期で、野球をやる子供は少なかったんです。地元の少年野球団から親が頼まれて、無理やり行かされたのがきっかけで、初めのうちはろくに練習もせず、グラウンドの横の砂場で遊んでるような子供でした。野球の楽しさに目覚めたのは、5年生のときです。二部のチームですが年間の代表選手に選ばれて、選抜でアメリカ代表と試合をしたこともあります。
シニアリーグからスカウトしていただいたりして、当時はプロ野球選手になることを夢見ていたのですが、小6のときの大会で肘を怪我してしまったんです。病院に行ったらじん帯がダメになっていて、手術をしても今後野球ができるかわからないといわれたときはショックでしたね」
夢を絶たれ目標を失った真田は自暴自棄になり、学校にもほとんど行かなくなってしまったという。
「ヤンキーというか不良といいますか、荒れていましたね…。実は我が家は代々、血の気の多い家系で、おじいちゃんも叔父さんも地元の番長だったんです。でも、弱い者いじめはするな、地域や仲間は大切にしろ、といい昔気質のアウトローです。子供の頃から、筋の通らない、曲がったことをすると、トンカチで叩かれるような家庭でした。でも、ヤンチャをしていても、節度を守っていれば怒られませんでした。
中学生で髪型はリーゼント。暇さえあれば喧嘩に明け暮れていました。もともと、僕らの親世代がやっていた『スペクター』という暴走族のチームがあって、上の代で途絶えていたのですが、同級生とせっかくだからもう一度立ち上げようと。総勢20人くらいで単車を走らせたり、トーナメント方式で喧嘩をしたこともありました」