ニッポン放送の看板番組『オールナイトニッポン』が放送開始から55周年を迎えた。初期の人気パーソナリティ、そしてニッポン放送社長も務めた亀渕昭信氏(81)は、『オールナイトニッポン』について何を語るのか? 新刊『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』を上梓する亀渕氏が、長寿番組の裏話を語り尽くす。ここでは自身のパーソナリティ時代について。【全3回の第1回】
「ビアフラへ米を送れ!」
──まず、オールナイトニッポン(以下、オールナイト)誕生のきっかけは何だったんですか?
そもそも深夜放送というのは、タクシーの運転手さんや夜中に働いてる人向けでした。だけどオールナイトが開始される1967年はベビーブーマーが受験期を迎える頃。夜中に勉強している若者が潜在的なリスナーになるんじゃないか、という読みがニッポン放送にあったんです。
当時、すでに文化放送の土居まさるさんがパーソナリティだった「真夜中のリクエストコーナー」(1965年)で若者に人気でした。局アナの土居さんが従来のアナウンサー口調と違った、日常の言葉で喋る放送は新鮮だった。僕もパーソナリティになった時にはお手本にしましたからね。
若者層を当てこんで午前1時から5時までニッポン放送社員たちがパーソナリティを務める『オールナイト』が始まったというわけです。開始直後は月曜が糸居五郎さん、火曜は斉藤安弘(アンコー)さん、水曜が高岡寮一郎さん、木曜が今仁哲夫さん、金曜は常木建男さん、土曜が高崎一郎さんという布陣。一人で喋るスタイルは孤独な受験生を慮って(笑)。だけど、その狙いは鋭くて番組は若者に支持されたんです。
──亀渕さんがパーソナリティになったのは?
1969年10月に始めました。僕は裏方で局アナでもない。渡米して向こうの放送や音楽に触れて、「お前、喋ってると面白いし、ディスクジョッキーをやってみないか」と誘われたというわけです。
──だけど、蓋を開けたら評判が良かった?
斉藤安弘さんと一緒に「カメ&アンコー」という名でレコードを出したり、毎週リスナーからハガキが1万通ぐらい届くんですが、本番中、それをスタジオ中にブン投げて一番遠くまで飛んだ人に賞金をあげたり。
一番驚いたのは1970年の「ビアフラ難民救済キャンペーン」です。