“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第20話では日航時代の“悪友”との思い出や出張時のエピソードを振り返る。【連載の第20回。第1回から読む】
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第20話「日本航空の懲りない面々」
自身の獄中体験を綴った1986年刊行『塀の中の懲りない面々』(文藝春秋)がミリオンセラーとなり、翌1987年には「流行語大賞」まで受賞した作家の安部譲二(本名・安部直也)が、田中敬子と日本航空の同期入社であることはすでに触れた。
拙著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)にも重要人物として現れる彼は、生前、筆者に次の挿話を聞かせてくれた。
「俺がJALに入ってしばらく経ってから、ウチのお袋が『お仲間をウチに招待なさい』って言って、同期の面々を自宅に招待したことがあった。ウチには母親と家政婦さんもいたんだけど、二人でたくさん料理をこしらえて、もてなしてさ。お袋が『ウチのナオをよろしく』って言って頭下げて回ってるのを見て、何だかジーンときちゃってさあ」
筆者はてっきり田中敬子も招かれたものと思って「そんなことがあったんですか」と訊くと「私は行ってないの。よく憶えてないんだけど、その日、フライトだったのかな」と首を傾げた。「それより、ナオのことで言うと、こんなことがあって」と敬子は次の話を聞かせてくれた。
「ナオって、同期から後輩から何からスチュワーデス全員に『デートしよ、デートしよ』って連絡先やラブレターを渡したりしてたのに、私には一度も渡さなかった。いや、別にそんなものいらないんだけど“何でだろう?”とは思ってたの。そしたら、あるとき、ナオがポロっと『お前の親父さん、警察だろ。渡すわけねえよ』って言ったの。要するに前科がバレると思ったらしいのよ!」
かねてより安部譲二は「JALには執行猶予中の身の上を隠して入社した」とエッセイなどで明かしており、警察官を父親に持つ敬子と親密になれば、それが露顕しかねないと危惧したということだ。筆者も大いに膝を打った。