“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第23話ではいよいよ週刊誌記者の奔走の末に2人が出会い、運命の歯車が動き始める──。【連載の第23回。第1回から読む】
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第23話「週刊誌記者」
『週刊明星』記者の美濃部脩は頭を抱えた。
そもそも美濃部は、力道山の命を受けて、日航スチュワーデスである田中敬子の自宅や、父親の田中勝五郎の住む茅ケ崎の警察官舎を訪ねたり、自宅に何度も電話をしていたが、ことごとく断られていた。
「力道山本人が会いたいと申しております」
「お断りします」
「そうおっしゃらず一度だけでも」
「私にはその気がありません」
「そこを何とか」
「申し訳ありません」
そのうち、電話すら取り次いでもらえなくなった。
「この辺りが潮時だ。やるだけのことはやった」
そう観念した美濃部は、力道山にはっきりと伝えた。
「敬子さんは、頭がよくて、勘のするどい人らしい。そのほか歯がきれいで、鼻筋が通っていて、耳の形がよくて……要するに、すべての点でリキさんの好みにぴったりなのだが、残念ながら、本人にもお父さんにもその気がまるでないんですよ」(『週刊明星』1963年1月27日号)
すると力道山は、驚くことにこう返した。
「ぜひ、会いたいから、機会をつくってくれ」(同)
美濃部はこのときのことを、次のように回想している。
「いいニュースと悪いニュースがあると、悪いニュースの方は耳に入らないというくせが、リキさんにはある。このときも、すべての条件がぴったりというところだけ聞こえて、見込みがなさそうだというところは聞こえなかったらしい」(同)
美濃部は腹を括った。