“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。最終回目前となった第24話では「交際」が始まった2人の思い出が明かされる。【連載の第24回。第1回から読む】
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第24話「夜物語」
1962年11月23日に行なわれた“お見合い”を機に、力道山と田中敬子の交際は始まった。
ただ、交際と言っても、その時点では結婚を前提にしたものではなく、一緒に食事をして、お茶を飲んで、会話を楽しむという他愛もないものである。それでも、力道山からすれば大きな前進と言えたかもしれない。
「大体コースは決まってました。ホテルオークラで待ち合せて、ホテルのレストランで食事をするか、カフェでお茶するかして、それで私は翌朝も早いので横浜の自宅まで車で送ってもらうの。やっぱり、スターだから大っぴらに外では会えない。本人もそこは神経質でしたね」(田中敬子)
いつもなら、ベンツのオープンカーを法定速度以上で飛ばしていた力道山も、敬子を助手席に乗せるときは、シートを被せて、何かの冗談のように速度を落として、ゆっくりと第二京浜を走った。少しでも長く敬子と一緒にいるためである。
ある夜、いつものように、のろのろとベンツを走らせていると、後方から「何やってんだ」とばかりにクラクションが鳴らされた。赤信号になったタイミングでそのキャデラックが隣に並ぶと、窓を開けて言った。
「リキさん、何をトロトロ走ってんだよ」
国鉄スワローズのエース、金田正一だった。
「おお」
「後ろを見ろよ、みんな抜きたくても抜けずに困ってるよ」
「わりいわりい」
金田は助手席の敬子の姿を認めると「お、邪魔したね、安全運転でー」と言って、軽くクラクションを鳴らして走り去った。