“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。ついにクライマックス、2人の関係は一体どうなるのか──。【連載の第25回(最終回)。第1回から読む】
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最終話「回転扉」
港の見える丘公園で夜景を見ながら、力道山と田中敬子は、いつもより長く話した。
力士時代のこと、前々妻との間に3人の子供がいること、プロレスラーになった頃の労苦、プロレス引退後はビジネスを手広くやろうと思っていること……話は多岐に及んだ。
田中敬子は「そうでしたか、それは大変でしたね」と相槌を打ちながら聞いた。
後日、叔従母の大谷ユキエにそのことを話すと「あなた、何を呑気なことを言ってるの。それはプロポーズされてるのよ」と叱られた。
「でなければ、そんな話はしないもの。それで何の返事もしないなんてかわいそうよ」
そう言われて「それもそうか」と思わないでもなかった。ともかく、敬子は結論を迫られることになる。受けるべきか、断るべきか、悩みに悩んだ。
ある日、父の勝五郎が久しぶりに横浜の自宅に泊まった。一緒に夕飯を食べていると、おもむろに「力道山のことだが」と口を開いた。
「付き合ってもいい。ただし、結婚だけは駄目だ」
敬子は頷くだけで何も答えなかった。
後日、力道山と会ったとき、敬子はそのことを明かした。すると力道山は、はにかむような、やるせないような、何とも言えない様子だったという。