その豪打から「怪童」の異名を取った中西太さんが亡くなった。90歳だった。稲尾和久氏や豊田泰光氏らと西鉄ライオンズの黄金期を支え、本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回を獲得した昭和の大スラッガーだ。引退後も西鉄や日本ハム、阪神で監督を歴任し、8球団でコーチを務めた。教え子に現・阪神監督の岡田彰布氏やイチロー氏らがいることで知られている。中西さんの「長所を伸ばす指導」によって、プロの世界で食べていけるようになった選手も数多い。取材現場での様子も、その穏やかな人柄が感じられるものだった。
中西さんは5月11日、都内の自宅で家族に見守られながら息を引き取った。本誌・週刊ポストの取材では、その自宅のインターホンを押して取材のお願いをしたことが複数回あったが、「ボクは(評論家を務める)日刊スポーツでお世話になっている。その恩を裏切ることはできない」という断わりの言葉を、門のところまでわざわざ歩いて出てきて、記者に告げるのである。
ただし、そこから続きがある。「仮に、君の質問に答えることが野球界のためになるなら、ボクが独り言を言うので聞いたらいい。それを書く、書かないは君の勝手だ。ただし、ボクは耳が悪い。聞きたいことを大きな声で頼む」と言って、“事実上の取材”が始まるのだ。
中西家の門を挟んでの立ち話は、5分で終わることもあれば、20分以上に及ぶこともあった。「立ち話で悪いね」と気遣ってもらったこともある。
2019年4月には、「トリプルスリー」の話を聞きに行ったことがあった。中西さんは入団2年目に打率.314、36本塁打、36盗塁というトリプルスリーを最年少で達成した。時を経て、2015年には山田哲人(ヤクルト)と柳田悠岐(ソフトバンク)が達成。山田は2016年、2018年にもトリプルリーとなっている。中西さんはこう話していた。
「我々の時代のトリプルスリーと今の時代のトリプルスリーは、いろんな意味で違いますよ。比較するのはあまり好きじゃないが、今は凄いピッチャーもいるし、スコアラーに丸裸にされる。ライバルも多いからね。我々の時代にもトリプルスリーだの、三冠王というのがあったが、個人のことよりチームが選手権に出て日本一になるというのが目標だった時代ですからね。
もちろん3割を打つ、30本打つ、そして30盗塁というのは目標のひとつだったが、当時の三原(修)監督から“中西よ、2年目とはいえ中心選手になったんだから、ヘッドスライディングでケガをしては困るから盗塁はやめておけ”と言われましてね……。監督の意見はもっともだと思い、それから盗塁ではなく打点ということで、三冠王を狙うようになった」