芸人生活31年、業界ならではの浮き沈みに身を委ね、気がつけば55歳。『ザ・ノンフィクション』(フジ系)をも密着させた「クズ芸人・小堀敏夫」ができあがるまで、どのような道を歩んできたのか。三代目・三遊亭圓丈への弟子入りから、ネタ番組でのプチブレイク、食うや食わずの貧困時代、ドキュメント番組での再浮上まで。その半生は夢のある自由な生き様か、はたまた単なる自堕落(クズ)か?【全3回の第3回。第1回から読む】
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──1967年に小堀さんは群馬県伊勢崎市で生まれました。地元の高校を卒業後、芸人としてのスタートは、三遊亭圓丈(三代目)師匠への弟子入りですよね。
1992年の入門だから、もう31年か。なんの努力もせずこれだけ長くやれちゃうんだから、甘い世界だよね。落語家になったのも、強い思い入れがあったわけじゃない。ただ、普通に働きたくなかっただけ。学生時代はちょうど『バブル景気』で、趣味でやっていたバンドでも小遣い程度は楽に稼げた。そういうヌルい時代だった。
──1度、就職されたと経験があると。
商社で働いて営業成績は悪くなかったけど、上司の汚いやり方とかを見て「ロックじゃねえ」って2年で仕事を辞めた。実際、落語家にも簡単になれた。そうやって、わりと簡単になんとかなってきたのも、我ながらよくなかった。完全にナメきってたからね。
──落語界では馴染めましたか?
当然、真面目な師匠たちには嫌われてた。「あのバカとは付き合うな」なんて言われたりもした。ただ、かわいがってくれる人もいた。ウチの師匠もそうだし、(春風亭)小朝師匠からは小遣いをよくもらった。「これで本を読んだり、映画や芝居を見たりして、もっと芸を磨きなさい」って、数十万円も。「ハイッ!」って調子よく返事するんだけど、そのままパチンコ屋へ行ってた(笑)。
──パチンコも芸の肥やしだったんですね。それでもやはりなんとかなって、5年目には二ツ目に昇進。
前座時代は、毎日寄席の雑務を手伝って、高座にも10分だけ上がらせてもらえる。これが二ツ目になると、自分の力で仕事を取ってこなくちゃいけなくなる。俺はオリジナルの落語ばかりやってたから、古典落語が聞きたい地方の年配の方には呼ばれないのよ。だから全然、仕事がなかった。そんな頃、鈴々舎馬風一門でやっぱりオリジナルをやっていた今の相棒(室田稔)と、一緒に会を開こうとなった。