晩成型の才能を拾い上げていく重要性
大船渡第一中学時代、軟式野球部に所属していた佐々木は、腰の痛みに悩まされていた。中学3年生の夏は無理をすれば投げられるものの、ケガが長引く可能性を医師に指摘され、当時の指導者は佐々木を最後の大会でマウンドに上げることはなかった。それゆえ、当時の球速は140キロを超えていたとはいえ、「佐々木朗希」の名が全国に轟くことはなかった。
「才能のある選手がいかなる競争を勝ち抜いてトップカテゴリーで活躍するか。(強化育成システムの研究者である)小俣よしのぶ先生がよく、サッカーのリオネル・メッシの話をされますよね。メッシは10歳の頃に成長ホルモンの分泌異常と診断されていて、アルゼンチン国内の一般的な競争選抜では、途中ではじかれてしまった。スペインのFCバルセロナがメッシというタレントを見出し、拾われなければ埋もれていたかもしれない逸材なんです。
早い段階から年代別の競争をさせて才能を拾い上げていくこと、つまり早熟の選手を見つけて育成する仕組みを構築すると共に、下のカテゴリーでは埋もれてしまうような晩成型の選手を拾い上げていくことも両輪として大事になる。朗希もメッシと同じで、一般的な競争選抜では完全にはじかれてしまうタイプのアスリートだったと思います」
高校野球の世界で一強時代を築く大阪桐蔭には、中学時代に日本代表歴を持つ逸材が全国から集まってくる。およそ20人の限られた枠に入って入学するためには、中学生の段階から目立った活躍をしなければとても声がかからないし、入学を希望しても20人に入るのは至難の業だ。
「中学3年生の段階では、大阪桐蔭に入るに値しない選手だったと思います。たくさんは投げられないし、走れないし、球速は出てもコントロールが悪いし。もちろん、生まれ育った地元を離れ、名門私立で一旗揚げて立身出世を目指すのも立派な道でしょう。だけど朗希は、大好きな岩手で、地元の仲間と一緒に野球をやりたいと思って、大船渡を選んだ。そうした本人の気質、性格、夢……そうしたものもうまく作用して成長につなげていったのでしょう」
大谷は花巻東高校時代に成長痛に苦しんだ時期があり、佐々木洋監督も過度な練習も無理な登板も強いることはなく、世界への飛躍を促した。高校年代で頭ひとつ抜きん出た実力を持ちながら、肉体的・骨格的には「晩成型」に位置づけられる大谷や佐々木が、指導者によって酷使されていたら、現在のような成功はなかったかもしれない。大谷や佐々木にとって、高校時代の遠回りが、プロの世界での成功への近道となったといえる。