お金の面だけではない。羽生が練習拠点をカナダに移した際には母が同行し、身の回りをサポート。英語に苦手意識があった羽生を励まし、精神的にも支え続けた。一方、父親と姉は日本に残り、家族は離ればなれになった。コロナ禍で仙台に拠点を戻してから、深夜の練習への送り迎えは父親が担当した。
「引退後の現在も家族のサポートは続いています。『アイスリンク仙台』での練習はほかの利用者と重ならないよう、現在も日付が変わった深夜1時頃から始まることもあるようです。その際も、車の運転はお父さんが担い、お母さんやお姉さんも隣で付き添っています」(別のフィギュアスケート関係者)
このタイミングでの転居には、ほかにも配慮がある。
「教師を務めてきたお父さんが、この春に定年を迎えたんです。実は、新しいマンションは昨年の春の段階で購入していたようです。その時点で引っ越すこともできたのでしょうが、お父さんの通勤の負担が増えてしまいます。
一方、羽生さんだけが先に引っ越すと、また家族がバラバラになってしまいます。羽生さんにとっては、“家族で一緒に”というのが絶対条件だったんでしょう。これまでの感謝を込めて選んだ新居は、家族愛に溢れた新たな拠点と言えます」(前出・メディア関係者)
地元を離れないのは、彼自身が度々口にしている“仙台愛”ゆえだという。
「2011年の東日本大震災のとき、羽生さんはアイスリンク仙台で練習している最中でした。自宅も被災したため避難所生活を余儀なくされ、ひとつのおにぎりを家族みんなで分け合ったそうです。
リンクの建物が壊れて使えなくなり、練習拠点を求めて全国を転々としながら“こんな状況で自分はスケートを続けていてもいいのか”と悩んだこともあった。だからこそ“ちょっとしたことでも僕のスケートが支えになれば”と、被災者を勇気づけるために滑り続けているのでしょう」(前出・スポーツ紙記者)
プロとして華々しい活動を始めていた昨年12月、羽生の姿は仙台にあった。アイスリンク仙台で開催された競技会「仙台市長杯」にサプライズ登場。競技会に出場する小中学生約70人の前で、2014年ソチオリンピックで金メダルを獲得したときのSP曲『パリの散歩道』を披露したのだ。
「羽生さんは子供たちに“緊張することは何ひとつ悪いことではない”“その次また強くなれるから”とエールを送りました。どんなに大きな舞台に立っていても、仙台のことを決して忘れず、こんなに小さな競技会にまで足を運んでくれる。本当に感動です」(地元関係者)
マンション購入は、家族と仙台への永遠の“愛の誓い”なのかもしれない。
※女性セブン2023年6月15日号