ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十一話「大日本帝国の確立VI」、「国際連盟への道4 その12」をお届けする(第1382回)。
* * *
前回紹介した『山本内閣の基礎的研究』(山本四郎著 京都女子大学刊)にあるエン州事件、漢口事件、南京事件の三つの事件の詳細な分析を、ここですべて引用するつもりは無い。そんなことをしたら一冊の本になってしまうし、とくにエン州事件については双方死傷者も無く、当事者の日本陸軍の川崎亨一大尉も無傷で送還されたこともあり、新聞もそれほどセンセーショナルに扱っていない。
したがって、まずは漢口事件の分析を紹介しよう。事件の概略はすでに述べたので詳しくは繰り返さないが、ポイントは北軍(袁世凱軍)の支配地域に踏み込んだ西村彦馬少尉と部下の兵士一名が、北軍に包囲され捕らえられたときに無抵抗だったか、それとも逃げようとして北軍の将校に傷を負わせたのかである。以下、〈 〉内は『山本内閣の基礎的研究』からの引用で、その原資料は外務省への公式報告(公電)である。
まず日本側に伝えられた中国側の言い分は、
〈該日本士官(のち兵卒と訂正)ハ剣ヲ以テ週番士官ノ左ノ肘ヲ切リタル為其場ニ居合セタル支那兵六人大ニ怒リテ上衣ヲ剥キ帯剣ヲ取リ去リ拘留〉
中国語で無いのは、中国側が打電してきた公電(公式電報による報告)を日本側が翻訳したからである。だから「中国」兵では無く「支那」兵になっているのだが、内容は正確である。それに対し日本側の報告は、
〈普通ノ支那服ヲ着ケタル者ノ合図ニ依リ三十四五名ノ兵卒突然之ヲ包囲シ身体ノ検査ヲ行ハントセルモノノ如ク少尉ハ差シタル事モ無カランカト彼レノ為スガ儘ニ為シ置キシニ先ニ帽及上衣ヲ脱セシメ次テ刀ヲ奪ヒ終ニ無法ニモ地上ニ倒シ手ヲ以テ打チ靴ニテ蹴リ多数ノ打撲傷ヲ蒙ラシメ後軍袴及長靴ヲ脱シ兵卒ト共ニ之ヲ停車場ノ柱ニ縛スルコト約十分〉
ここでも注目すべき事実は、西村少尉と部下の兵士の衣服を剥ぎ取ったことを中国側も否定していないということだ。殴る蹴るの暴行をしたことは認めていないが、少尉と部下の衣服を剥いで「拘留」したことは認めている。
じつは対立する日本と中国の見解のなかで完全に一致しているのは、この「中国側が衣服を剥いだ」つまり「二名の日本軍人に中国側が屈辱的な私刑(リンチ)を加えた」との一点だけなのだ。両者の見解が完全に一致するのだから、この「衣服を剥いだ」ということだけはこの事件のなかで間違いの無い唯一とも言える真実である。
では、中国側がなぜそんな国際法上は許されない無法な行為を加えたのかという理由について、中国側は日本側の兵士が先に剣を抜いて中国側の士官を傷つけたからだと主張している。これに対し日本側は、それを否定している。これはどちらの言いぶんが正確なのか?
この中国士官は武開彊という人物で、当直士官だった。武は、〈日本兵卒短剣ヲ以テ胸ヲ刺サントシタル刹那腕ヲ上ケタル為受ケタリトノ趣目下ノ傷面ハ横二「センチメートル」長サ一「センチメートル」ノ半円形〉と主張し、フランス人医師の診断も同じだとしている。つまり日本兵が(無法にも)自分の胸を刺そうとしたので慌てて左腕で庇ったところ刺され傷を負った、というのだ。