通算215勝をあげて、フォークボールの神様と呼ばれた杉下茂氏。現役時代は中日のエースとして活躍したが、30代半ばにして現役を引退した後は、監督やコーチ、そして球界の御意見番として長く野球を愛し、またファンからも愛されるという97年の生涯だった。
指導者としての杉下氏は中日監督(1959~60年)、阪神コーチ(1964~65年)、阪神監督(1966年)、中日監督(1968年)、巨人コーチ(1976~80)、西武コーチ(1993~94年)を歴任している。杉下氏は本誌・週刊ポストの取材に対して、1964年の阪神で投手コーチとして村山実とバッキーの2枚看板を育て上げ、チームをリーグ優勝に導いた当時のことをこう振り返っていた。
「村山とバッキーが巨人3連戦の頭に投げてくれたのが大きかった。特に村山は、節目の記録を巨人戦で達成しようとする。三振を取るにしても、1500個目は長嶋(茂雄)から取るんだ……と向かっていく。そんなエースがいたから巨人にも勝てた。作戦はそれだけです。というか、巨人3連戦の頭に村山を当てないと本人が怒るわけですからね。ただ、(フォークボールを指導しようにも)頑固な男でね。阪神では“腕の位置を下げていい変化をするところを探ったほうがいい”とアドバイスしたが、彼は“お客さんはボクが真上から投げるザトペック投法を見にきてくれる。イメージを壊したくないので投げられるまで上から投げます”と返してくるような選手だった。
(ノーコンだった)バッキーには、特訓に次ぐ特訓。投げ込みはもちろん、フォームも変えました。バッキーには球団社長が“君は本当はクビのはずだったが、新しい投手コーチが君に期待しているというので残した。コーチの命令を聞きなさい。聞かなかった時は即刻クビだ”と話していたそうで、だからボクの命令を100%聞いた。ボクも30代だったので体を張ってアザだらけになりながらフォームの矯正に一緒に取り組みましたよ。そうしたら、その年に29勝してくれた」
指導者としても長く慕われ、90歳を超えてからも中日の臨時コーチとして春季キャンプに参加していた。