白石一文氏の書き下ろし最新作『投身』の舞台は、約3年に及んだコロナ禍にようやく出口が見え始め、人出も徐々に戻りつつある、東京・大井町界隈。
「僕はいつも小説を今とか今日を起点に書いていて、これを書いた頃に住んでいたのが大井町の近く。でも僕は外で飲み歩いたりもしないので、お地蔵様みたいに地面に半分埋もれたまま、町とか人が発する電波をずっと傍受しているような感じなんです」(白石氏、以下同)
そのお地蔵様の観察力に改めて感心してしまうほど、区役所の程近くでハンバーグとナポリタンの店「モトキ」を営む主人公〈兵庫旭〉の造形や、彼女を取り巻く人間模様は、妙にリアル。旭に店舗及び、独り身には十分すぎる庭付きの平屋を格安で貸してくれた二階堂地所の〈二階堂さん〉や、その庭目当てにやってくる洗車マニアな妹の夫〈藤光〉。二階堂さんと通うスナック「輪」の〈順子ママ〉や、高輪の名家に嫁ぎ、介護の合間に若い男を買うことで均衡を保とうとする二階堂さんの長女〈陶子さん〉ら、それぞれ過去も事情もある大人達が織りなすドラマは、一見楽しげですらある。
が、今年73歳になる二階堂さんが旭にあの家を貸し、便宜を図ってくれるのも、実はある〈奇妙な約束〉と引き換えだったのである。
「僕も今年65だからわかるんだけど、結局人間って、否応なく消滅するんですよ。それでも誰かが憶えていてくれればまだ気休めになる。ただそれも相手が死んだら全部チャラで、この人間に特有の『何も無くなる』という感覚から全ての欲望は生まれると思うんです。
もちろん生殖の欲望なら他の生命体にもある。でも人間は『結局は全部忘れる』という恐怖に慄くからこそ、もっと違う次元で爪痕とか痕跡を残したがる。それが物凄く厄介なんです。そういう人間の欲望とか、根っこにあるものを、僕はずっと書いてきたわけですけど、小説を書くこと自体、僕なりのささやかな抵抗なのかもしれません」
物語はモトキの営業後、久々に2時まで飲んだ旭と二階堂さんがスナック輪のママに見送られ、三ツ又商店街をそぞろ歩く、2022年8月未明のシーンから始まる。
〈なんだかねえ……〉〈春とか秋とか、いつの間にかなくなっちゃったねえ〉と嘆く二階堂さんは、今年49歳の旭の二回り上で、商店街の身代わり地蔵尊を通る際は合掌礼拝を欠かさず、賽銭箱に千円札を入れて〈早くちゃんとした秋が訪れますように〉とお願いするような、二階堂地所の2代目。父親が戦前に興した会社を手堅い手腕で〈倍の倍〉にし、今は社長の座も長男に譲って悠々自適だが、旭はその日、〈こんな時代だしね、多少の強がりも交えて言うと、そろそろ潮時のような気がしているんだ〉という彼から週末に家に来るよう言われ、話は9年前のあの約束のことだろうと察した。