昨年8月の“再始動”宣言から約1年。中森明菜(57才)はいまだ公の場に姿を見せないが、水面下では歌手活動の再開に向けた計画が着々と進んでいるという。
「まだ体調が万全とは言えないなか、SNSで明菜さんが言っていたように、ゆっくり歩き始めています。7月13日は彼女の58回目の誕生日。その頃にファンクラブ会員向けの極秘の誕生日イベントを開催し、近々7年ぶりの“新曲”を出す計画も持ち上がっているそうです」(芸能リポーター)
昭和最後の歌姫、明菜を語るうえで欠かせない曲が、いまから35年前にリリースされた22枚目のシングル『I MISSED“THE SHOCK”』(1988年11月)だ。孤独にふさぎ込み、心が壊れていく女性の心情を歌った同曲は、アイドル歌手の枠を超えた活動を模索していた明菜にとって大きな転機となった曲だった。
「当初は暗い雰囲気の歌詞や曲調が大衆に受け入れられず、1984年の『サザン・ウインド』から15作連続で獲得していたオリコンチャートの首位から陥落してしまったのです。ところが、リリースした1988年のNHK紅白歌合戦で披露したのを機にジワジワと評価が高まり、最終的には30万枚以上を売り上げるヒットを記録。同じ年に1位を獲得した『TATOO』を超える数字を叩き出しました」(芸能関係者)
1985年に『ミ・アモーレ』で第27回日本レコード大賞を受賞した頃から明菜はセルフプロデュースに乗り出し、英語の勉強にも力を入れるようになった。
「1986年には渡米して、ニューヨークで全編英語詞のアルバムを制作しています。アーティスト性を追求し、周囲の反対を押し切ってシングルに選んだ『I MISSED“THE SHOCK”』の成功に明菜さんは自信を深めるようになったといいます。当時、ステージで明菜さんが着用したオートクチュールの豪華な衣装も大きな話題になりました」(前出・芸能関係者)
今年4月に公開された映画『中森明菜イースト・ライヴ インデックス23 劇場用4Kデジタルリマスター版』は前述の紅白の後、1989年4月によみうりランドで行われた“伝説のコンサート”を映像化した作品。関係者を驚かせたのは、明菜と関係が悪化していたワーナーミュージックが映像を提供したことだった。
「1980年代後半から1990年代にかけて自殺未遂騒動や金銭トラブルに見舞われた明菜さんは極度の人間不信に陥っていました。所属事務所やレコード会社にも不信感を抱き、移籍や独立を繰り返したのもその頃です。
ライブのステージで『“ワー”で始まるレコード会社が作っているのは買っちゃダメ』とファンに不買を呼びかけたこともありましたが、時を経て、いまは同社と協力体制を取っているようです」(前出・芸能リポーター)