ちょうど30年前の1993年。自社「55年体制」の“壁”が打ち破られ、自民党が結党以来初めて野党に転落した──その立役者である“政界の壊し屋”小沢一郎氏が今、永田町で再び精力的に動き出している。その目的は何か。新刊『壁を壊した男 1993年の小沢一郎』を上梓したフリージャーナリストの城本勝氏がインタビューした。【全3回の第2回。第1回から読む】
必ず選挙制度改革を実現しようと決心
小沢が初の政権交代を実現したのは1993年。自民党のど真ん中にいた小沢は「55年体制の壁を壊す」と決意、政権交代を実現させて小選挙区制の導入を柱とする選挙制度改革の実行に突き進んだ。
小沢は、自民党の梶山静六幹事長らとの激しい闘いの末、宮澤(喜一)内閣の不信任案に賛成して解散総選挙に持ち込み、自民党を過半数割れに追い込んだ。そして非自民を結集させ、細川(護煕)連立政権を樹立して小選挙区制を導入した。30年前の闘いを振り返って反省や教訓はないのか、改めて聞いた。
──1993年の宮澤政権の時に自民党をぬけました。どんな心境でしたか?
「あの頃、金丸(信)先生の事件(1993年3月、自民党の金丸信元副総理が脱税で逮捕・起訴された)もあって、政治改革の機運が非常に強まった。初当選の頃から小選挙区制を唱えていた僕は、むしろこれはいい機会だと思った。
しかし、政治家は選挙基盤が固定化しているから、これを変えるのはみんな嫌なんだね。一方の野党は小選挙区じゃ負けると思って大反対。自民・社会党共にみんな反対だった。それでも僕自身は、初当選から25年間思い続けてきたことだから、この機会にどんなに抵抗されても必ず選挙制度改革を実現しようと決心した」
──だから自民党にいながらも宮澤内閣に対する不信任案に賛成した。
「だけど、梶山(静六)さんや反対派の激しい抵抗にあっただけでなく、野党の中にも“不信任案が可決されると解散になる”と恐れていた議員もいたため、不信任案が可決されるかどうかは不透明だった。それでも結局、最後は我々の派閥(羽田派)44人が一人も欠けずに不信任案に賛成することを決めた。際どい勝負だったが、これで自民党に勝てると思ったね」