「よく交代させられませんでしたよね(笑)。その年の冬は、ショートを守っている先輩と僕とで、午前中はずっと(当時の森下知幸)監督のノックを受けて、午後から全体メニューを消化していました。当時、常葉菊川の野球は『バントをしない野球』だった。それでいて、守備がボロボロだとノーガードの打ち合いになってしまう。だから、守りを鍛える必要があったんだと思います。全体練習もバッティングより守備に時間を割いていた」
4回出場した甲子園では、町田が中田翔(当時・大阪桐蔭、現・巨人)の高々と上がったフライを捕球し、岡大海(当時・倉敷商業、現・千葉ロッテ)のセンターに抜ける当たりを素速く回り込んで捕り、ファーストにクイック送球してアウトにしたことも。
だが、個人的には最後の夏、決勝の大阪桐蔭戦で見せたゲッツーを狙ったプレーが出色だったと感じる。高く跳ね上がった当たりが町田の手前でショートバウンドとなり、打球を捕るや、クルッと回転しながらショートに素速くジャンプスローしたシーンだ。
「自分でもそのプレーが印象に残っていて、最高のプレーだと思っています。あの時、捕球してから回転する間に、ショートとベースが見えなかったんです。投げる前に一瞬、『どうしようか』と躊躇するんですけど、練習の時から何十回、何百回、何千回と繰り返して来たプレーなので、今で培ってきたことを信じて、仲間の姿が見えなくても『これぐらいの強さでいいかな』と思って投げたらアウトにできた。残念ながら打者走者はセーフだったんですけど、右打者だったらアウトにできていたかもしれませんね」
高校日本代表にも選出された町田は常葉菊川を卒業後、早稲田大に進学するも、1年の途中で退部。大学も辞めた町田は同級生の仲介もあって社会人野球のヤマハに所属した。2013年の現役引退後は浜松市内で福祉関係の会社を立ち上げ、放課後等デイサービスや児童発達支援施設を運営しているという。
野球とのつながりもある。年に数回、静岡県島田市の中学生を集めた野球教室を開催し、また草野球チームも運営していて自身もプレーすることがあるという。ポジションはもちろん——―。
「セカンドです(笑)」
◆取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)