ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その3」をお届けする(第1389回)。
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のちに「第一次世界大戦」と呼ばれた戦いは、前回述べたように、最初はオーストリア=ハンガリー帝国(以下オーストリアと略す)とセルビア王国の戦争に終わるはずだった。一九一四年七月二十八日、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。この争いにドイツ帝国とロシア帝国が加わった。ドイツ帝国はセルビアを中心とした汎スラブ主義を叩き潰すためにオーストリアに味方することにしたのだが、当初そのドイツにはスラブ系では最大の大国であるロシアがセルビアに味方するかもしれないという危惧があった。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世はイトコ同士であったため、ドイツはロシアにこの戦争に介入しないよう要望したのだが、汎スラブ主義を支援する姿勢を取っていたロシアはドイツの申し入れを拒否したので、やむを得ずドイツはロシアに宣戦布告した。
ドイツはフランスにも中立を保つよう要請していた。この時代、フランスはロシアと同盟関係にあったからである。一般に「三国協商」と呼ばれる同盟だが、なぜ「三国」なのかと言えばイギリスもその一員だったからである。しかし、この関係は当初は第二次世界大戦で日本がドイツやイタリアと結んだ日独伊三国同盟のような強固なものでは無かった。
フランスとロシアそしてフランスとイギリスがそれぞれ経済的協力関係を密にしようと結んだ関係が、結果的に仏・露・英のゆるやかな同盟を自然に成立させたもので、三国で一か所に集まり軍事同盟を結んだのでは無かった。それが結果的にドイツ包囲網になったのには、さまざまな理由がある。
まずフランスだが、ナポレオン・ボナパルトの時代にヨーロッパすべてを敵に回し、最終的にはイギリスに敗れて一時没落し、その後戦争下手なナポレオン3世の時代になったこともあり、ドイツ帝国の前身であるプロイセンにも惨敗することになった。いわゆる普仏戦争(1870年)であり、前にも述べたがこのときフランスはプロイセンの鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクに手玉に取られ、皇帝ナポレオン3世も捕虜とされた。そしてこの勝利によって、プロイセン王国が盟主となったドイツ帝国が誕生した。
そしてドイツ帝国宰相となったビスマルクが留意したのは、ドイツ帝国に多くの人命だけで無くアルザス=ロレーヌ地方という領土まで奪われ復讐心に燃えるフランスをいかにして封じ込めるかである。現在は第二次世界大戦という大惨禍の後の時代なので、どんな理由であれ戦争を仕掛けるのは許されない(だからロシアは許せない)という時代だが、原爆や毒ガスなどが使用される以前の時代は、復讐心が戦争を起こす最大の原因の一つであった。
普仏戦争におけるフランス軍の戦死者は約二十八万人である。最大八千万人が犠牲になったと言われる第二次世界大戦の結果から見れば「少ない数字」に見えるかもしれないが、日露戦争での旅順攻防戦で乃木希典大将が短期間で旅順要塞を陥落させたにもかかわらず、約一万五千人の戦死者を出したことで強く非難されたことを思い出していただきたい。それと比較しても二十八万人という戦死者は途方もない数字であり、その二十八万人には遺族や友人がいる。それがフランスという民主国家の世論をリードすることは容易に想像がつくだろう。わかりやすく言えば、「ドイツ討つべし」という公約を掲げる政治家あるいはそれを支持する民衆に、異議つまり平和を唱えるということはきわめて難しいということだ。