国民には、国家の過去を謝罪する権利はない
法人としての国家が過去の加害行為に対して一定の責任をもつとしても、だからといってその法人(国家)に属する個人にも責任があるとはいえない。
公害を引き起こした企業に、その後に入社した社員に対して、「責任を取れ」と難詰するのは理不尽だろう。その当時、在籍していたとしても、有毒物質の排出にまったく関係のない社員(たとえば営業マン)まで批判するのは行き過ぎだと考えるひともいるはずだ。
法人は人間の集団(組織)に便宜的に法的な人格をもたせたものだから、物理的な実体はなく、被害者に謝罪することはできない。そうなると、法人を代表する個人(企業であれば社長や取締役会)が行為の主体になるほかはない。同様に、国家が過去の加害行為を謝罪するときは、民主的に選出された国家の代表(首相・大統領)かその代理人(外務大臣や外務官僚)が行為の主体になる。
これは逆にいうと、「国民一人ひとりには、国家の過去に対して謝罪する権利はない」ということになる。共同体の過去に責任を負えるのは、共同体を代表する者だけなのだ。
この論理はきわめて明快だが、そうなると、個別に戦争責任を問われるのは実際に戦場で加害行為を行なった者か、責任の範囲を拡張しても、植民地化や侵略に賛成した当時の国民だけということになる。だが第二次世界大戦終戦から80年ちかく経過した現在、戦争責任を負うべきひとたち(1945年時点で20歳以上だった成人)はほとんど存命していない。すなわち、「国家は責任を負うべきだが、国民に責任はない」という状況になっているのだ。──「現在においても白人が黒人を構造的に差別している」と主張される人種問題とは、歴史問題はここが決定的にちがう。
東アジアの歴史問題では、中国や韓国が求めているのは日本政府の適切な謝罪・賠償であって、日本人一人ひとりをつかまえて「戦争責任」を問おうとしているわけでない。だとすればわたしたちは、歴史問題に対して、「自分には関係ない」と答えてすませればいいのだろうか。これがサンデルの問題提起だ。