第二次世界大戦終戦から80年ちかく経過した現在、戦争に直接かかわったひとは、ほとんど存命していない。では、このような状況で、戦争責任と国家・国民のかかわりをどう考えればよいのだろうか。新刊『世界はなぜ地獄になるのか』で、リベラル化する社会における適切な振る舞い方について論じている、作家・橘玲氏が解説する。
* * *
アメリカの哲学者マイケル・サンデルは、日本でもベストセラーになった『これからの「正義」の話をしよう』で、個人(国民)は国家の過去の加害行為に責任を負うべきかという興味深い議論をしている。これは、「アメリカの白人は過去の奴隷制に責任を負うべきか」という問題と同じだが、議論の前段階としてまずは国家の責任について考えてみよう。
日本では慰安婦問題などで、「現在の価値観を過去に当てはめるな」との主張がなされることがある。だが、もしこれが正しいとするなら、大航海時代の奴隷貿易やアメリカの奴隷制も、その当時は「合法」だったのだから(すくなくともそれを明示的に禁じる法はなかった)、欧米諸国はこうした過去の行為になんの責任も負う必要がないことになる。さらにいえばホロコーストも、ドイツ軍の占領地域はドイツ国内法の管轄外で、一種の治外法権だったのだから、「違法性はなかった」とすることも可能だろう。
現実には、こうした主張をする者は「レイシスト」「歴史修正主義者」のレッテルを貼られ、社会的な排除の対象になる。「極右」や「陰謀論者」以外、誰からも相手にされなくなってしまうのだ。
法治国家の原則は「法の不遡及」で、法令の効力はその法の施行時以前に遡って適用してはならないとされる。そのときは合法だったのに、あとになって「法律が変わったからお前を逮捕する」というような社会では、誰も安心して暮らすことができないだろう。
だが法の不遡及は、個人に対しては適用されるとしても、法人にそのまま当てはめることはできない。次のような事例で考えれば、このことはすぐにわかるだろう。
ある企業が有害物質を排出していたが、そのときはそれを規制する法令はなかった。だがその有害物質によって近隣住民に深刻な健康被害が発生したとき、法の不遡及によって、この企業を免責することは正義とはいえない。企業の加害行為(有害物質の排出)で苦しむひとたちが現実にいる以上、その企業は被害者を救済する道義的・社会的責任を負うことになる(この典型的なケースが水俣病だ)。
同様に、戦争や植民地時代の加害行為についても、法人としての国家は被害者に対して一定の責任を負っている。だがその基準は時代の価値観によって変わり、かつては問題にならなかった(「よくあること」ですまされていた)ことが「犯罪」と見なされ、国際社会から正義にかなう対応を求められるようになった。「リベラル化」が進むにつれて犠牲者の体験が重視され、国家の責任を追及するハードルが下がったのだ。
慰安婦問題に対して日本の右派・保守派が決定的に間違っていたのは、それが国際社会で「女性の人権問題」ととらえられていることを理解できず、韓国とのあいだの「歴史戦」だとして、文献的な事実によって犠牲者(慰安婦)の証言を否定しようとしたことだ。日本政府は右派のこの論理に引きずられて対応を誤り、その結果、アメリカや欧州議会、国連(自由権規約委員会)などで日本の謝罪と補償を求める決議が繰り返されるという外交の大失態を招いた(残念なことに、日本政府は現在も、この国際社会のリアリズムを理解しているようには思えない)。