記憶をめぐる小説である。三十九歳になった私が、恋人が出て行ったことをきっかけに、二十年ほど前にごく短い期間、たむろしていた部屋の記憶がふいによみがえる。

 その部屋はデリヘルの事務所として借りられたもので、マンションの11階にあった。夜の街で働いていた大学生の私は、仲良しの先輩ホステスと一緒になんとなくその場所に出入りするようになり、同じように集まってきた女の子たち、男たちと知り合う。

「記憶の扉って変なことで開きますよね。ウクライナ爆撃のニュースでイラク戦争を思い出すし、コロナ禍で部屋にこもっている感じに、密閉された部屋に何の目的もなくたむろしていた時間を思い出します」

 小説に描かれる2000年代前半はちょうど、それまでの店舗型風俗が訪問型のデリヘルに切り替わる時期だったそうだ。

「風俗店だと出勤するから同僚がいたり、店長がいたりするけど、デリヘルにはそういう場がなくてバラバラなんだけど、デリヘルを始める前の一瞬だけ場みたいなものができて、生きる意味も目的もまだはっきりしない若者がなんとなく居心地よくて集まってくる。そういう奇妙な時間を書きたかったですね」

 吐瀉物の匂いや体臭、タバコ、香水の匂い。書き込まれたさまざまな匂いが立ち上ってくるようで、部屋の輪郭をひときわはっきりさせる。

「ぜんぜん食欲をそそらない匂いばかりで申し訳ないですけど(笑い)。思い出をめぐる話なので、匂いのことは結構、しっかり書いています。匂いって、記憶と結びつきやすいですよね。写真とかと違って、記録としてとっておけないぶん、あやふやじゃないですか。頭の中にしかない、検証しようがないのも面白いです。情景描写は全部書き込むと重たく、読みにくくなるので『ギフテッド』は音、『グレイスレス』は色を重点的に書いています」

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