思い返せば、私を含め多くの視聴者はドラマが始まる前から堺さんに対して先入観を持っていたのではないだろうか。あったのは勧善懲悪のドラマといわれた日曜ドラマ『半沢直樹』の主役のイメージだ。誰が悪で誰が正義かわかりやすく描かれていたドラマで、堺さんは絶対的な正義を貫き通すために、組織の中で懸命に悪と対峙し戦うという役どころを演じた。ところが『VIVANT』は違う。正義の人と思って見ていたら、堺さん演じる乃木の正義はそう単純ではないらしい。衝撃の展開に、何が彼の真の正義かわからなくなったのだ。
堺さん演じる乃木には、少なくとも2つの立場と正義がある。乃木がときどき会話するFは、イマジナリー・コンパニオンという想像上の仲間なのか定かでないが、自分とは別の想像上の人格が現れるという設定で描かれている。乃木とFの2人が画面に映し出されることもあれば、乃木の人格がFと交代するような場面もあるが、これも巧妙な仕掛けである。
これまでの話では乃木の正義は愛する家族を守ること、だがFの正義は国家を守ること、そして乃木を死なせないことだ。国際的なテロの首謀者で乃木が追う男が実は自分の父親。その父親と対面する時、愛する者と国家の間でもがき苦しむ乃木。と、普通のドラマなら言うところだ。だが乃木とFを登場させたことで、乃木の内にある対立や葛藤が視聴者にはFという存在を通して、わかりやすく描かれる。どちらの正義が正しいのか、どちらの正義が勝つのか。それとも乃木が生き残るため、Fは誰を敵とするのか。そのドラマを堺さんがどう演じるのか、そこも見応えだと思う。
ドラマ自体も誰が本当の悪で誰が正義かわからない。何が正義なのかもわからない。誰が敵で誰が味方かもわからなければ、放送回によって味方が敵に、敵が味方に変わる。そのため組織や人々の葛藤が複雑に交錯する。最近は、見ていて心地が悪くなるような要素を好まない視聴者も多いと言われるが、複雑に葛藤が交錯する不協和音が響きながら、それでも『VIVANT』は見る人の興味をかき立て次も見たくなる。それは、人には不確実性を解決したいという心理的欲求があるからだ。どうなるのか先がわからない、結末が想像できないと、知りたいという欲求はどんどん大きくなる。この欲求は想像以上に強いといわれているため、途中で止めるのは難しい。『VIVANT』は視聴者の知りたいという欲求を、回を重ねるごとにさらに強く刺激し、ますます膨らむように作られている。
シナリオは人々の内面にある葛藤をどう描くかによって、その面白さが変わると聞く。見るごとに謎が深まる『VIVANT』には、どんな結末が待っているのだろう。