1987年の騎手デビューから34年間にわたり国内外で活躍した名手・蛯名正義氏は、2022年3月から調教師として活動中だ。蛯名氏の週刊ポスト連載『エビショー厩舎』から、新人騎手時代の思い出についてお届けする。
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僕がジョッキーになった1987(昭和62)年というのは、「日本中央競馬会」をJRA、それまで「場外」などと言われていた街中の馬券売り場を「WINS」と呼ぶようになった年です。オヤジたちのギャンブルだった競馬が、もっと幅広い人々が楽しめるレジャーへと向かい始めた時期です。ちなみに「ターフビジョン」なんていうのも、この年に命名されたそうです。翌年にはタマモクロスとオグリキャップの芦毛対決が話題になり、一気に競馬ブームが加速します。
それでも競馬場はまだ「鉄火場」などといわれ、圧倒的に男性の数が多く、若い女性の姿などはほとんど見かけませんでした。今のように「クリーンキャンペーン」などという言葉もなく、ハズレ馬券が地面に散らかっているような、どちらかというと殺伐とした場所でした。
それは厩舎のあるトレーニング・センター(トレセン)でも同じ。競馬学校に入る前はテレビでレースを見ることしかなかったので、厩舎での研修が始まってびっくり。とにかく“個性的”な人ばかり。具体的には……ご想像にお任せします(笑)。それでもこの中でなんとかやっていくうちに大人になっていくのだろうなあと思っていました。“教育的指導”なんかもあったようですが、僕がお世話になった矢野進厩舎は、やさしい人ばかりでした(ホントです)。
新人の頃は厩舎の2階に住んでいました。8畳ぐらいの部屋が2つあって、もう一人、先生の一番弟子だった助手さんと一緒でした。トレセン内には独身寮もあって、そこに住んでいる若手ジョッキーも多かったけれど、僕は厩舎に住んでいた方が朝ラクだなという思いでした。すぐ下が職場なわけですから。時折、馬が壁を蹴る音や鳴き声が聞こえてくることもあり。それはそれで悪くない環境でもありました。
美浦トレセン自体は東京ドーム48個分という敷地の中に、2つの馬場や坂路(現在改修中)、プールや森林馬道といった調教施設の他、約100の厩舎がありますが、そこに隣接して団地のような建物があり、独身者用から家族が住めるような広さの部屋もあります。食堂やスーパーマーケット、クリニックや郵便局なんかもあって、普通に暮らすために必要なものは揃っています。