ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その7」をお届けする(第1393回)。
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ドイツの青島要塞攻略の最高司令官だった神尾光臣中将が取った戦略について、当時の新聞はどのように伝えたか? たとえば、『東京朝日新聞』一九一四年(大正3)十月六日付朝刊には、日本初の「航空母艦」とも言える『若宮』が機雷に接触して戦闘不能になった件を、次のように報じている。その前置きだが、
〈▲松村侍從武官語る
▽若宮丸の遭難を目撃す
=四日門司特電=
四日出征艦艇所在地より歸來せる御慰問使侍從武官松村海軍大佐は往訪の記者に對し左の如く物語れり
敕諚を奉ぜる予(松村海軍大佐。引用者註)は廿七日佐世保より某船に便乘して廿九日勞山灣に到着し直に御使たるの大任を以て第二艦隊司令官に會し茲に優渥なる▲御慰問の聖旨と有難き御下賜品を傳逹したるが長官を始め將卒は聖旨の海よりも深きに感泣し長官よりは辱なく奉答の辭を述べられたり〉
言わば、こうしたときの決まり文句である。大正天皇の現場激励の意を受けた侍従武官の松村大佐は、九月二十七日にたぶん九州の門司を出港し、二十九日には現地に到着した(詳細な日程は軍事機密になるので、ぼかしてある)。そこで海上封鎖の任務に当たっていた第二艦隊の司令長官に「優渥なる」陛下のお言葉を告げたところ、長官以下大変に感激したということである。そして松村大佐は「一駆逐艦(これも艦名は明記されない)」に搭乗して湾内の艦艇を激励していたが、そこで若宮の災難を目撃した。
〈當日午前八時恰も哨界▲司令船若宮丸の敵機械水雷に觸れ偶難に遭へるに會し且や述掃海船第三長門丸之れを救はんとして述も敵の水雷に觸れ轟然たる大音響を發し瞬間に於て船體の聳てると見るや水煙天に沖して凄じく船體を沒し去り戰死者を出したる〉
(引用前掲紙)
要するに、湾内には日本海軍来襲を予想していたドイツ海軍によって機雷が多数バラまかれており、大変危険な状況だったということだ。しかし「日本兵はそんなことでは屈しない」というのが、この時代の報道の「立場」である。
〈此處に臨める予は水雷爆破の爲めに頭部び顏面に甚だしく火傷を負へる一兵卒を見舞ひ嘸や痛みやすらんと尋ねたるに『イヤ少しも痛みを覺えず』と健氣にも答へたり〉
(引用前掲紙)
もちろん、こう報告しているのは松村大佐であって朝日新聞記者では無いが、こうした言葉の真偽を疑いもせずに他人が言ったことをそのまま報じているのだから「客観報道」だというのが、朝日新聞のみならず日本の大手マスコミの「手口」である。そして、戦前いわゆる「昭和二十年以前」は、軍部つまり陸軍海軍についてはすべてこのような応援団的報道をしていたのに、戦後になると自衛隊に一人でも悪いことをした人間が出現すると、自衛隊全体に問題があるかのような「客観報道」をしていたのも日本のマスコミである。
それは逆に、かつてのソビエト連邦や中国や北朝鮮については応援団的報道しかしないという「立場」にも通じる。もう少し高いレベルのマスコミが日本に存在しないものかと願うのは私だけでは無いだろうが、話を続けよう。
基本的にこの時代の航空機は偵察用であったと述べたが、戦闘機としてはともかく爆撃機としては有効であった。上空から搭乗員が爆弾を投げつけることは物理的に可能だからである。そしてこの松村大佐も爆撃を目撃している。
〈若宮丸遭難の際敵は遙に之を認めたりけん我所在艦艇び救助船を攻撃せんとして青島より一飛行機に搭じて予等の頭上に飛び來り爆彈を投下せしも外れて危くも附近に落ち徒らに海水を跳らしたり〉
(引用前掲紙)
初期の航空機は飛ぶのが精一杯で積載能力も低く、それゆえ大型爆弾は積めなかった。それどころか、上空から釘の束のようなものを投げて撹乱したという話すらある。ちなみに、前回紹介した東宝映画『青島要塞爆撃命令』を観ると航空隊は海軍にしかなかったように見えるが、陸軍にも「モ式」飛行機を中心とした航空隊があった。日本初の空中戦には、陸軍の飛行機も参加している。