独特な口調で人気を博し、一躍人気者となった2人がテレビから消えて約1年半。その間、彼らはシビアな現実にぶつかり、あまりにも“残酷”な選択を強いられていた。「おすぎです」「ピーコです」息の合ったあの掛け合いを聞くことは、もう叶わない──。
2階建てのその施設は、周囲を田畑や雑木林に囲まれた緑豊かな住宅街にあった。各フロアに風呂やトイレが設置され、廊下には誕生日会やクリスマス会の写真が飾られている。入居者が寝起きする個室の入り口には、手作りの名札やかわいらしいのれんがかけられ、介護用ベッドの上には色とりどりの寝具が並ぶ。
そのなかに、空き部屋と見間違えるほどにシンプルな一室──ベッドのほかに置かれているのは、小さな洋服たんすとテレビだけ。部屋の入り口には、「すぎうら」と、ひらがなで書かれた名札がかけてあった。
この部屋の住人は、おすぎ(78才/本名・杉浦孝昭)だ。髪の毛は白髪が増え、うっすらとヒゲをたくわえた顔は日焼けしている。背中や腰を丸めて移動する入居者が多いなか、ほっそりとやせ細ったものの、背筋を伸ばし、介添えなしで歩く姿が印象的だ。現在、おすぎはこの施設で穏やかに暮らしている。だがここに至るまでには、双子の兄・ピーコ(78才/本名・杉浦克昭)との慟哭のドラマがあった。
1945年1月18日、ピーコは神奈川県横浜市に生まれた。その5分後に生まれた双子の弟がおすぎだった。高校卒業後、兄はファッション、弟は映画評論の道へと進んだ。2人は1975年にラジオ番組に一緒に出演し、個性的なキャラ全開のマシンガントークで大ブレーク。「おすぎとピーコ」として芸能活動を始め、一躍人気者となった。
だが年齢を重ねるにつれて方向性の違いが生じ、おすぎは福岡に拠点を移した。東京と福岡に分かれて暮らす2人だったが、その人生が再び交差することになったのが、2021年だった。
「2021年の夏頃に、おすぎさんの体に異変が生じたんです。テレビの収録中に集中力が散漫になったり、物覚えが悪くなるなど、認知症の初期症状が見られるようになりました。ひとりでの生活が困難になり、横浜市内のマンションで、ピーコさんと一緒に暮らすことになったんです」
そう明かすのは、兄弟の同居開始から現在に至るまでの一連の経緯を知るピーコの知人だ。2021年12月、兄弟の約50年ぶりの同居が始まった。
「老後のお金はもう貯金してある。ピーコはお金がないから、アタシが面倒をみないと」
かねてそう語っていたおすぎの思いとは裏腹に、ピーコがおすぎの面倒をみることになった。事務所を畳んで万全の準備とともに始めたはずの「老老介護」だったが、現実は甘くはなかった。
「いざ同居を始めてみると、これまでと違うおすぎさんの様子にピーコさんは大きなショックを受けました。おすぎさんの認知症の症状が、予想以上に進行していたようなんです。イライラからピーコさんが言葉を荒らげる回数が増え、出がけにおすぎさんに“早くしなさいよ! 何してるの!”と怒鳴ることが多くなりました。ピーコさんが“いますぐ出ていってちょうだい!”とおすぎさんを追い出し、行く当てもなく街を徘徊するおすぎさんが警察に保護されたこともありました。
実はこの頃、ピーコさんにも認知症の症状が出始めていて、記憶力が落ちると同時に、感情の起伏が激しくなっていたんです。しかもピーコさんにはその自覚があったので、人一倍苦しんでいました」(前出・ピーコの知人、以下同)
怒ってはいけないとわかっていながらどうしても感情を抑えることができず、この世でたったひとりの肉親を罵倒してしまう。大声を出したピーコはいつも自分を激しく責めて、やりきれない思いを抱えていた。もうこれ以上、おすぎと一緒にいてはいけないのではないか──苦しい毎日が続くなか、ピーコは決断した。
「おすぎさんとの生活を知人に相談していたピーコさんは、“このままでは2人ともダメになってしまう”と、おすぎさんを認知症患者の施設に入所させることを考えたそうです。もちろん離れたくはないけれど、これ以上一緒に過ごしたらおすぎさんをもっと深く傷つけてしまう。だからと言ってひとりにするわけにもいかない。しっかり面倒をみてくれる施設に入れることが最善という考えで、悩み抜いた末の苦渋の決断でした」
ピーコは知人と一緒に、おすぎが安心して暮らせる施設を探した。そして昨年2月、おすぎは冒頭の施設に入居。50年ぶりの2人暮らしは、わずか3か月で終焉を迎えた。