ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その8」をお届けする(第1394回)。
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「山東(半島)百年來と稱する暴風雨」のため、予定より遥かに遅れた青島要塞総攻撃。
だが、スケジュール的にはなんの問題も無かった。何度も繰り返すが、ドイツ軍は孤立しており援軍が来る心配はまったく無かったからである。そしてこれもすでに述べたように、日本軍は要塞攻略にあたり兵士の戦死を最低限に抑えることが可能だった。時間をかけて砲台陣地を構築し重砲を多数配備すれば、一方的な攻撃ができるからである。
総司令官の神尾光臣中将がそうした戦略を採用したのも当然で、考え得る作戦のなかでは最上のものだ。逆に言えば、批判の余地など無いはずだ。ところがこの戦略に対しての批判が、前回紹介した特派員美土路春泥(昌一)の記事(『東京朝日新聞』1914年〈大正3〉10月10日付)のしばらく後に同紙に掲載された。十月二十八日付のその記事は、「二十五日上海特派員發」(記者名は無い)となっているが、「米記者の攻圍戰報」と題されており、アメリカ人記者「ブレース氏」(ファーストネームは載っていない)の記事を翻訳したという触れ込みである。
「触れ込み」というのは、アメリカ人記者の所属も書いていないのでいまのところ私が原文を確認できないからだが、これも長文にわたるので要点を紹介する。
まず、「日本軍の意思は急がず迫らず氣長く事を行はんとするに在るが如し蓋し同軍は永久的兵營を造り叉平度には法廷を設け裁判官を置き其他各種の點に於て支那人をして日本人の治に馴れしめんとするの風あり其意茲にあらざらん乎」との前置きがある。つまり、「日本軍は急いで青島要塞を攻略しようという意図は無く、周辺に裁判所などを作って将来日本の統治に現地の民が馴染むようにするのが最大の目的のように見える」ということだ。それゆえ、以下のように続く。
〈日本兵の優勢を以てして豈決戰を急ぐ能はざるの理あらんや而も日本軍の此遲緩なる前進に對して獨逸守備隊の士氣は益々振ひ最初に於ける神經過敏的状態も今や醫せられ人は漸く日本の彈丸に馴れつゝあり叉青島砲臺修築せられ益々堅固となり防備事業着々進捗せるは日本軍が守備隊に二箇月の時日を與へたる賜ならずんばあらず而して叉青島にては何時外部の形勢變化し或は歐洲の平和を見、或は支那の日本反對を見るやも知れずなどと憶想するものありと〉
(引用前掲紙)
〈大意〉
〈日本軍は優勢なのだから、決戦を遅らせる理由はなにも無い。それなのに、日本軍がこの悠長な戦略を続けている間に青島を守るドイツ軍の士気はますます高まり、かつてみられた神経過敏的な症状も無くなって、彼らは日本の砲声にも動じなくなった。また砲台がますます堅固となったのは、日本軍が2か月間もの猶予をドイツ軍に与えてしまったせいだ。そんなことをやっている間にヨーロッパでは戦争が終結してしまうかもしれないし、中国の反日運動も激化するかもしれない。〉
つまり、暗に「このままではいけない。一刻も早く総攻撃を開始せよ」と煽っているわけだが、不思議なのはこの記事がいわゆる軍事常識から完全にかけ離れていることだ。どこが軍事常識と異なるのか? それを理解してもらうには、日本の戦国時代の長篠城籠城戦(1575年〈天正3〉)を思い出してもらうのが一番早いかもしれない。
この時代から見ても三百年以上前の、しかも日本の戦いになんの関連があるのかと思われるかもしれないが、中国の孫子が紀元前に「敵(彼)を知り己を知れば百戦危うからず」と言ったように、千年以上経っても変わらない戦場の常識はある。この場合は籠城の常識と言ってもいいかもしれないが、あの戦いはつい先ごろNHK大河ドラマ『どうする家康』でも登場したので思い出していただきたい。
武田勝頼率いる軍勢約一万五千が、織田信長・徳川家康連合軍の最前線の城である長篠城を包囲していた。城兵はわずか五百だったが、長篠城は堅固な城で武田軍の猛攻もなんとか凌いでいた。だが兵糧も乏しくなり、このままでは落城してしまう。そこで城将奥平貞昌は、家康のいる岡崎城へ援軍を要請することにした。その使者を買って出たのが、鳥居強右衛門勝商だった。
鳥居は夜陰に紛れて城を脱出し、武田包囲網をまんまと突破し岡崎城までたどり着いた。ところが、帰り道で武田軍に捕らえられてしまった。勝頼は強右衛門を殺さず、それどころか城兵に援軍は来ないと言え、そうすれば命を助けるし金を与えると言った。ところが強右衛門は承諾したふりをして城の近くまで行くと、「援軍は必ず来る」と大声で叫んだため、怒った勝頼に殺されてしまった。しかし強右衛門の言葉を聞いた城兵は勇気百倍し、ついに長篠城は持ちこたえた、という話である。
ここからわかる軍事常識とはなにか? まず、包囲され補給を絶たれた城の兵士は、徐々に精神的にも物質的にも損耗し弱っていくということだ。ゆえに、このままでは落城しかないと城将奥平貞昌は考え、援軍要請に踏み切った。これが実現すれば兵士は希望を持ち、さらに何日か戦えるからである。もちろん、そういう籠城兵の常識は百戦錬磨の勇将である武田勝頼も熟知している。
それゆえ強右衛門を殺さず籠絡して「援軍など来ない」という偽情報を城兵にもたらし、それによって士気をくじこうとしたのだ。結果的には失敗に終わったが、もし成功していれば長篠城は落城していただろう。だからこそ、勝頼の意図を命を懸けて阻止した鳥居強右衛門は英雄視されたのだ。