藤井聡太・七冠が「全冠制覇」まであと1勝に迫った。残すところ唯一のタイトルとなった王座戦の第3局(9月27日)で永瀬拓矢・王座に終盤の大逆転で勝利し、10月11日の第4局に勝利すれば将棋界の8タイトル独占を達成する。「全冠制覇」は羽生善治・九段(日本将棋連盟会長)が1996年に七冠(最新のタイトル「叡王」は2017年から)を達成して以来となるが、当時の「羽生フィーバー」を超える話題になるのは間違いないだろう。
まさに「将棋界の歴史」が変わる瞬間が目前に迫るなか、半世紀にわたってプロ棋士たちの活躍と日常を写真に収めてきた大ベテラン写真家の著作『将棋カメラマン』(小学館新書)が発刊された。1970年代に「将棋界の巨人」と呼ばれた大山康晴・十五世名人から「令和の若き天才」藤井聡太・七冠まで、脈々と受け継がれる「個性的な名棋士たち」の知られざる素顔を、カメラマン・弦巻勝氏の貴重な写真とともに振り返る。
戦後の大名人として、長きにわたり将棋界のトップに君臨した大山康晴との邂逅を、弦巻氏が明かす。
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将棋会館建設費を自ら調達
大山先生が将棋連盟会長に就任(1976年)する数ヵ月前のこと、将棋界では最高峰のタイトル「名人戦」の主催をめぐる騒動が勃発した。
1949年から名人戦を単独主催していた朝日新聞は、契約金の増額交渉で将棋連盟と決裂。名人戦の主催は毎日新聞に移ったが、その騒動の余波で1977年の名人戦は中止となってしまったのだ。
大山先生が以前から「毎日新聞派」だったのは将棋界で有名な話だった。戦後、大山先生は毎日新聞の嘱託棋士を務めており、1949年に名人戦の主催が毎日新聞から朝日新聞に移行したときも、毎日支持の立場に立っていた。
1976年、名人戦が再び毎日の主催となることが決まったとき、将棋連盟はメディアに大宣伝を呼びかけた。
当時、大山先生が取材に同行していた僕を呼んでこう言った。
「これ、撮ってくれる?」
手に持っていたのは、毎日新聞が作成した「名人戦本社復帰」のポスターだった。
「大山先生、これをそのまま撮ると使いにくいので、近くの床屋に張り出してもらってはどうでしょうか」
何と大山先生は自ら街の理容店に飛び込んで、交渉を始めた。
「このポスターを壁に張ってもらえませんか」