背番号10番の描く美しい放物線に日本中が酔いしれている。ラグビーW杯で日本代表の躍進を支える司令塔・松田力也(29)。その正確無比なキックはいかにして生まれたのか。ラグビーエリートの挫折と栄光に迫った。【前後編の前編。後編を読む】
負けたらあかん
負ければ予選プール敗退が決定的となる9月29日のサモア戦、タイトな試合をコントロールし、日本代表を勝利に導いたのは「10番」を背負う司令塔、SO(スタンドオフ)の松田力也だった。スポーツライターの栗原正夫氏が語る。
「鍵となったのは、6本中5本を決めた彼のキックです。前の2試合では100%決めていて、トータルで16本中15本、94%(サモア戦終了時点)という成功率は驚異的。世界屈指の数字です」
松田の右足は一朝一夕で作られたものではない。6歳の頃、ラグビー選手だった父親の影響で楕円球を追いかけ始めた。負けず嫌いな性格で、父の愛がこもった厳しい指導のもと、ラグビーにのめり込んでいった。
2005年12月25日。その日は松田が試合で怪我をして病院に運ばれた日であり、父がくも膜下出血で急逝した日でもある。小学5年生のクリスマスだった──。
父は飲食店を経営しており、繁忙期だったがいつもどおり愛息の試合観戦に訪れて、松田の病院にも付き添った。帰宅後、夜からの仕事に備えて「軽く寝るわ」と言って寝室に向かったのが最期の言葉となった。
自分が怪我をしなければ違う未来になっていたんじゃないか──松田はそう思い、自分を責めて泣いたという。
悲嘆に暮れる彼を救ったのが「負けたらあかん」という父のひとこと。それからラグビーに打ち込み、京都では並び立つプレーヤーのいない存在へと成長していった。