ラグビー日本代表で「10番」を背負うSO(スタンドオフ)の松田力也(29)。6歳からラグビーを始めた松田は、小学5年生で支えてくれていた父を亡くすも、全国優勝4度を誇る強豪・伏見工業に進学。大学は「常勝軍団」帝京大学に進み、1年時から司令塔を任された──。その挫折と栄光に迫った。【前後編の後編。前編から読む】
「余裕っしょ」
司令塔に松田を据えた帝京大学は4年間日本一の座を守り続けた。4年の時、カナダ戦で日本代表初キャップを獲得し、初の日本開催となる2019年W杯ではその活躍が大いに期待される存在となっていた。
だが、この大会は松田にとって屈辱的なものとなる。松田はSOとして一度も先発出場を果たすことができず、出場時間は5試合で合計63分に留まった。スポーツライターの栗原正夫氏が語る。
「彼にしてみれば、不完全燃焼で大会が終わってしまった。日本が歴史的勝利を挙げたアイルランド戦では途中出場すら叶わず、本人は相当ショックだったでしょう。だからこそ“次のW杯では自分が10番で出て日本を勝たせたい”という思いを抱きながら過ごしてきたと思います」
決意を新たにした松田をまたしても試練が襲う。2021年5月、リーグワンの最終戦で、左膝の前十字靱帯断裂という大怪我を負ってしまったのだ。
W杯まで2年4か月。松田は手術を決断し、懸命にリハビリに励んだ。地道なトレーニングを積み、身体の構造を理解するため「24時間ウォーキング」に挑戦。キックのフォーム改善にも取り組んだ。
「フランスに行くまではキック前のルーティンが抜刀のような動きだったのですが、初戦のチリ戦でいきなり両肘を曲げて手を前に出す“恐竜スタイル”に変えた。右肩が下がらないことを強く意識しているらしく、そのための最善策が現在の形だったようです」(スポーツ紙記者)
これまでの試行錯誤の結果がキック成功率94%という数字に表われた。
今夏に代表復帰したものの、離脱している間に「10番」をめぐる争いは激化し、W杯前のテストマッチでは李承信(22)の先発出場が多かった。
それでも松田は“いつも通り”を貫いていたと日本代表キャップを持つ尾崎晟也(28)は話す。
「LINEで“10番いけそうなんですか?”と聞いたら“余裕っしょ、いけるっしょ”みたいな返事しか返ってこなかった(笑)。普段からこんなテンションなんです。だけど僕からすれば、いつも通りの力也君だからこそ、10番をつける自信があるんだなと安心できました」
今後、日本代表がラグビー強豪国と世界に認められるためのキーマンとなるのは、やはり10番を背負う松田だ。母校・伏見工業の監督を務めていた高崎利明氏がこう期待を寄せる。
「日本は試合を重ねるごとにレベルが上がってきているし、チームもまとまっている。どんな世界の強豪が相手でも、力也のキックがあれば、きっと道は開けるでしょう」
その右足が紡ぐ奇跡を、天国の父も見ているはずだ。
(了。前編から読む)
※週刊ポスト2023年10月20日号