歌舞伎界において「史上最大の悲劇」といわれた事件の発生から5か月。保釈中の身である市川猿之助(47才)は孤独な悔恨の日々を送っていると思いきや、初公判が始まる前からすでに「復帰」を前提として、歌舞伎の一門の弟子らによって献身的なサポートが行われていた──。
東京地裁の法廷に立つ市川猿之助被告は一体何を語るのだろうか。10月20日、両親への自殺幇助の罪で起訴された猿之助の初公判が行われる。
「興行主も所属事務所も、猿之助さんとの契約解除などはしておらず、公判の流れを見守る姿勢をとっています。彼の陳述や判決、それに対する世間の反応を見ながら対応を考えようとしているようです。
ただし、興行主サイドは水面下で『復帰が大前提』として動いています。現在の歌舞伎界において、猿之助さんは数少ない“お客の呼べる役者”ですからね。さすがに実刑判決が出たら復帰は不可能ですが、もし執行猶予判決が出るようなら、社会貢献活動など“禊”を行い、世間の理解を得たうえで復帰させるというプランを練っているそうです」(歌舞伎関係者)
歌舞伎役者としてのみならず、演出家、プロデューサーとしての猿之助の手腕を評価する声は根強い。
「もし舞台上に復帰できなくても、歌舞伎公演の裏方としてかかわっていく道は残されているのではないか」(前出・歌舞伎関係者)
来年2月には新橋演舞場でスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』が上演される。
「スーパー歌舞伎」は、三代目猿之助(後に二代目猿翁)が1986年に立ち上げた、従来の歌舞伎の枠を超えた新基軸の舞台。澤瀉屋の専売特許ともいえるものだ。三代目からその舞台の枠組みを引き継ぎ、さらに発展させ、澤瀉屋の屋台骨を支えてきたのは猿之助だった。
「猿之助の逮捕後、澤瀉屋の公演の中核は市川中車(香川照之、57才)が担っています。しかし、演技の素質は天才的でも、40才過ぎてからの歌舞伎界入りでは経験不足が否めず、チケットの売れ行きがイマイチなのが現状。一部では“猿之助がいないとだめだ”という声が根強くある。ただ、当の猿之助にその意思があるのかどうかは、ほとんど伝わってきていません。そういう意味でも裁判での発言が注目されます」(別の歌舞伎関係者)
歌舞伎界に新風を吹き込んだ三代目猿之助は、2003年、体調不良で公演を降板した後、舞台に立つ機会が減り、2012年には隠居名である二代目猿翁に名を変えた。その後、闘病生活を続けていたが、今年9月に83才で逝去した。その実の弟が、今年5月に猿之助が自殺を幇助し、妻とともに亡くなった猿之助の父・市川段四郎さん(享年76)だった。
「段四郎という格の高い名跡を担った人なのに、歌舞伎界はその死をまるで腫れ物のように扱っています。葬儀も納骨も一切公にはされず、すべて事後発表。それどころか『お別れの会』のようなものも、開催の見通しは現状ではまったく立っていません」(前出・別の歌舞伎関係者)
「付き人兼俳優X氏」とは距離ができて
事件発生から入院、逮捕、1か月以上の長期勾留、起訴、そして保釈を経た猿之助は、7月末に都内の大学病院に入院。事件現場でもある自宅に帰ったのは、8月中旬のことだ。コンクリート造りのモダンな外観で、猿之助が戻ったとき、敷地入り口には「警視庁」と書かれた黄色い規制テープが張られたままだった。
「本人が“両親が睡眠薬をのんで意識混濁した後、顔にビニール袋をかぶせ養生テープで留めた”と供述しているように、自宅は両親が死を遂げた『事件現場』です。そこで過ごしていれば、フラッシュバックしてもおかしくありません。ショックを和らげるよう、周囲は猿之助さんにホテル暮らしをすすめましたが、本人の意向もあって自宅に戻ることになったと聞いています」(澤瀉屋関係者)
だが、猿之助は決して自宅にじっと潜伏していたわけではない。関係者に付き添われながら病院通いを続けつつ、8月下旬には帽子とマスクで顔を隠してはいるものの、短パンにサンダル履きというカジュアルな服装で気分転換に自転車で外出していた。
「猿之助さん自身も自死を図ったわけですから、再び同じことをする危険性もある。彼をひとりにするのはまずいと、同年代の歌舞伎役者のAさんが付きっきりで身の回りの世話をしてきました。Aさんは猿之助さんの直系の弟子になってから10年ほどです」(前出・澤瀉屋関係者)
猿之助の病院通いや自転車での外出時にも、Aさんは同行していた。一方、事件前に猿之助の隣にいつもいた付き人兼俳優のX氏の姿は忽然と消えている。
「X氏は歌舞伎座の大道具のアルバイトや猿之助さんの運転手を務めながら、猿之助さんの自主公演では主演に抜擢されたりしていました。常に行動をともにし、猿之助さんがX氏のために誕生日パーティーを催すなど、寵愛を一身に受けていました」(公演関係者)
自らの命を絶とうとした猿之助は、メモに《愛するX 次の世で会おうね》としたためたが、事件後、X氏とは距離ができているという。