公称会員827万世帯を誇る創価学会──政権運営に多大な影響を及ぼしながら、これまで公明党という緩衝材のおかげで、自民党との関係性は表に見えてこなかった。支持率低下にあえぐ岸田政権の生殺与奪権をも握る「最強集票組織」の正体に迫る──。
自公ではなく「自創」という連立政権の核心を知り得る者は、永田町にも数少ない。長年その関係を取材し、創価学会との太いパイプがあることで知られる菅義偉・前首相のもとで首相補佐官を務めた帝京大学教授の柿崎明二氏がその内幕を描く。【全3回の第2回。第1回から読む】
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メディアは自公関係を「連立」と称する。しかし、これでは野党時代を説明できない。本質は選挙協力にある。2009年に下野した直後、公明党は関係見直しを模索したが、2010年の参院選でも地域ごとの協力は維持され、非改選も含めて民主党を参院過半数割れに追い込んだ。2012年、衆院選では選挙協力をほぼ復活させ圧勝、政権に復帰した。
本来、野党が連立政権の樹立、あるいは連立与党がその維持を前提に国会対策や選挙で協力することは「政党連合」と定義される。野党時代を含めると自公は政党連合なのだ。だが、メディアが閣僚人事など与党時の派手なニュースに目を奪われているせいか、政党連合には目が向けられない。
野中広務が明かしたこと
選挙協力が重要であることを見抜いていたのが、自公連立を推し進めた小渕恵三内閣の野中広務・官房長官だ。
野中氏の政務秘書官だった加藤芳輝氏は生前、私に「野中氏は1998年に官房長官に就任する前から旧知の創価学会関係者に連絡して感触を探り、連立も可能と踏んでいた」と語っている。
野中氏も自身の回顧録で〈いきなり自民と手を組んだのでは、支持者にとても説明できない。ワンクッションおいてもらわなければ〉(『野中広務 全回顧録 老兵は死なず』文藝春秋)と新進党分裂を経て再結党した公明党から要求があったことを明かしている。その意向を踏まえ、まず、小沢一郎党首率いる自由党を引き込み、公明党の求める政策を実現するなど環境整備に努めた。そして、翌1999年10月、公明党は自自連立内閣に参加した。
野中氏が感触を探った創価学会関係者とは、創価学会本部青年部副男子部長などを務めた竹岡誠治氏だろう。竹岡氏の著書『サンロータスの旅人』(蜜書房)の発刊への寄稿文で野中氏はこう振り返っている。
〈初めてお会いしたのは、山梨だった。私が自由民主党の総務局長在任中であった。仲介者は佐々木ベジ氏。(中略)そのころ山梨では、金丸信氏のスキャンダルで、知事選で金丸系が落選し、次いで(1992年の)参議院の選挙区も厳しい状況であった〉
会った席で野中氏は竹岡氏に公明党の支援を要請、〈おかげで選挙は、勝利することができた〉という。その後紆余曲折を経て、急速に両氏は親しくなり、野中氏は次のように呼びかけられる。