厳しい競争を勝ち抜き、プロ棋士になれるのは原則として年間で4人のみ。現役の棋士は170人ほどしかいない。「天才集団」と呼ばれる彼らの中で、藤井聡太はなぜ頂点に立てたのか。藤井と杉本昌隆師匠の対談取材をしたことがある、野澤亘伸氏がルーツを辿った。【全3回の第1回】
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もし藤井聡太少年が将棋に出会うのがあと数年遅かったら、そして自宅の近くに『ふみもと子供将棋教室』がなかったら、才能は違う分野に向かっていたかもしれない。
愛知県瀬戸市に生まれた藤井聡太八冠は、5才のときに祖母が将棋セットを買い与えると、すぐに夢中になった。祖母は近所で文本力雄さん(68)が将棋教室を開いているのを知ると、聡太少年を連れていく。月、水、土の週3日レッスンだ。
「ぷっくりした頬っぺたがリンゴみたいに赤くてね」(文本さん・以下同)
薄茶色の髪に少しウエーブがかかり、女の子のようにも見えたという。
5才という年齢は、小中学生が中心の教室ではまだ幼い。だが、棋士の多くは将棋の道で大成するためにはいかに早く始めるかだという。そしてよきアマチュアの指導者に出会うことが欠かせない。聡太は毎週休むことなく教室に通い、負けるといつも泣いていた。
「ちびっ子が正座して2、3時間集中するのは大変なことです。だから授業が終わった後は自由にさせていました。聡太はプロレスが好きで、いつも年上の子相手に組み合うけど、最後は両足を持たれて股間ドリルをやられる。ゲラゲラ大笑いした後に、お母さんが迎えにきて元気に帰っていきました」
聡太は半年ほどすると週3日のレッスンでは物足りなくなり、もう1日増やしてほしいと母親から文本さんに頼んでもらう。「それで金曜日に聡太を含めた上級者4名の授業をやるようにしました。それからグングン腕を上げて、入会から1年で20級から4級まで昇級しました」