「1人だけをいじめないで」
東京の下町生まれの天海は、中学生の頃には、すでに長身で周囲の目を引く存在だった。しかし、当時の天海にとっては、その身長がコンプレックスだった。
「これ以上背が伸びないように、重い物をずっと持っていたり、頭の上に載せたりしていたそうです。その後のタカラジェンヌとしての大成をその長身が支えたというのは、少し皮肉ですよね」(別の演劇関係者)
天海の意識を変えたのは、中学校の教師だった。
「宝塚にいけば、あなたのその身長が生かせるわよ」
元来、歌や踊りが好きだった天海に、タカラジェンヌという未来が浮かび上がった。ただ、多くのタカラジェンヌのように、幼少からバレエや日本舞踊、歌の英才教育を受けたわけではなく、バレエを始めたのも高校1年生のときだ。
「高1の冬には、宝塚音楽学校を受験する準備が整っていて本人もそのつもりでいたんです。でも、バレエ講師に『合格はする。でもいまの技術では入学してから苦労する』と止められて、受験を1年先送りしたそうです」(前出・別の演劇関係者)
その間、「天海と芸能界」の距離が一気に近づく事態も起きていた。街中で声をかけられ、資生堂のPR誌『花椿』の表紙を飾ったのだ。高校生にして、当時では考えられない10万円もの謝礼を受け取り、モデル事務所から仕事のオファーが届いていたほどだったという。モデル業に傾きかけたこともあったが、両親の説得もあり、高校2年生の冬に満を持して音楽学校を受験。18倍という競争率をくぐり抜けた。
「レオタード姿で試験会場に入ってきたとき、審査員が全員息をのんだ。審査員の1人が、“お父さんお母さん、よくぞこの子を産んでくれた!”と言ったというのは語り草になっています」(前出・別の演劇関係者)
同期42人の中で、天海はトップ合格。ここから、天海の宝塚での日々が幕を開けることになった。2年制の音楽学校では、上級生が「本科生」、下級生は「予科生」と呼ばれる。本科生は、予科生の指導係だ。音楽学校では合格時の成績上位4名が、その同期の中で「委員」という役職につく。予科生に甘さが見られると、叱られ役はその委員だった。
当時の音楽学校の生活は、軍隊並みの厳しさだったという。起床は4時半、早朝6時過ぎから8時過ぎまでは、音楽学校特有の掃除の時間だった。綿棒や筆まで使って、教室から廊下、校内の至るところのすみずみまでほこりを取り除く。それでも残ってしまったほこりを見つけられ「これなあに?」と先輩からの嫌みな言葉が飛んだ。
《「ほこりです」とも言えないから、謝るしかないんです。口答えも、反論もできないんです》
宝塚在籍時の1994年、天海は雑誌のインタビューでそう話していた。ハードなのは掃除だけではない。休みは日曜日だけで、毎日、日本舞踊に演劇にバレエにタップの稽古が続く。「鼓笛行進」といって、1時間ひたすら行進するカリキュラムもあったという。出来が悪ければ、容赦なく本科生からの厳しい声が飛んだ。
「天海さんを支えたのは、“高校を中退してきたのに、辞められない”という反骨精神でした。送り出してくれた両親に面目が立たない。そういう価値観が彼女の原動力になっていたのでしょう」(前出・演劇関係者)