娯楽映画研究家で『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)を執筆した佐藤利明さんは、アメリカツアーについてこう語る。
「当時の全米公演の観客は日系人が中心でした。2人が回る会場はほぼ同じ。先にひばりさんが笠置さんの歌を披露すると、後から来て歌う笠置さんのオリジナル曲とは思わない人もいるでしょう。笠置さんがした通達は、自分の曲を大切にするアーティストにとっては当然の対策であり、笠置さんもそれほど海外公演に力を入れていたのです」
その後、2人の確執をあおるような記事を芸能雑誌などが書き立て、この因縁は世間に広く伝えられることになった。事態を重く捉えたひばりさんのマネジャーは、笠置さんとタッグを組んでいた作曲家、服部さんの元へと向かい、いままでの不義理を謝罪。そして「和解」へと舵を切ることになる。
1951年、2人が共演する場が設けられた。舞台となったのはNHKのラジオ番組。
「番組内で、笠置さんとひばりさんが一緒のマイクでそれぞれの持ち歌『東京ブギウギ』と『東京キッド』を歌ったのです。“大ブギの女王・笠置”と“小ブギの女王・ひばり”が共演した瞬間でした。そのときの写真は、当時の芸能雑誌の表紙にもなりました」(砂古口さん)
これほどに大きな禍根を生んだ因縁と確執だが、実は2人の関係を悪化させたのはひばりさんの母だったという。
「ひばりさんの母、加藤喜美枝さんは、1949年に『ヘイヘイブギー』の歌唱を断られたことを機に、笠置さんを恨むようになったそうです。
その後、喜美枝さんが記者らに『笠置はひどい女だ』と喧伝したことで、『ひばりサイドが笠置サイドにいじめられた』という話がまことしやかに伝わり、2人の不仲説が広まったというのが実際のところなのです」(砂古口さん)
喜美枝さんは“ステージママ”の元祖ともいえる存在で、彼女が笠置さんに対する憎悪をたぎらせていたため、前述のラジオ共演を以ってしても、2人の間にできた溝は完全に埋まることはなかった。
1957年、当時43才の笠置さんはまだ人気の座にあったにもかかわらず、突然、歌手廃業を宣言する。その後は個性派女優としてバラエティー番組やCMにも活躍の場を広げるが、歌手としてマイクを握ることは一度もなかった。奇しくも笠置さんの歌手廃業宣言の年に、ひばりさんは初めて『NHK紅白歌合戦』の大トリを務めた。
「ほとんど共演経験のなかった2人ですが、笠置さんがひばりさんについて語ったと思われる言葉が1つだけあります。ひばりさんが1947年に初舞台に立ち、わずか9才で、戦争への怒りややるせない気持ちが綴られた名曲『星の流れに』を歌い上げ、その日いちばんの注目を集めた様子を見て、『子供と動物には勝てまへんなあ』とつぶやいたのだ。早くからひばりさんの才能を認めていたのかもしれません。
国民的大スターの2人が共演した作品を後世に残せなかったことは、芸能史の損失だと私は思います」(砂古口さん)
ブギブームが終焉を迎え、ひばりさんが世間の人気を得るのと反比例するかのように歌手の世界から去っていった笠置さん。もしかしたら、ひばりさんの存在が彼女にマイクを置かせた??という見方はうがちすぎだろうか。