自分の最期の瞬間を想像してみる。家族は泣いてくれるだろうか、葬儀や財産はどうなるだろうか、痛みや苦しみはあるだろうか。そして、自分は「幸せ」に死んでいけるのだろうか──多くの「死」を間近で見てきた専門家たちは、口々に言う。「後悔せずにこの世を去るのは簡単ではないが、できることがある」と。
自宅の介護用ベッドに横たわった高齢の男性は80代の末期がん患者。だがおもむろに鼻に差し込まれていた経鼻栄養チューブをするすると抜き、ペットの犬がひざに飛び乗る。さらに笑顔で酒やたばこをたしなみ、孫娘と記念撮影──この映像は、福井県で在宅医療をしていた男性の孫がSNSに投稿したもの。この一家を知る医療法人オレンジ理事長の紅谷浩之さんが語る。
「このかたは病院では“管だらけ”の状態でしたが、“どうせなら最後に思いっきり好きなことをしよう!”と、家族が難色を示す医師を押し切って自宅に連れ帰ったのです。
するとみるみる元気になり、チューブでしか栄養を摂ることができなかったはずが、自分の口で好きなものを食べ、病院では当然禁止されていたお酒やたばこも楽しんで、最後にはなんと、車椅子で旅行できるまでになった。病院にいたら“最後に孫と愛犬に会いたかった”と、やり残したことだけが心に残ってしまっていたでしょう」
もちろん、入院して延命治療を受ければ、亡くなる日を遅らせることはできる。だが一方で、最期の瞬間まで自分らしくいることは難しい。病院はあくまでも「病気を治す場所」であり、患者一人ひとりの人生や死生観が優先されるわけではないからだ。
「病院にいると、病気が“主語”になる。治療や延命を最優先した選択を迫られ、本来の希望を見失ってしまう患者も少なくありません。
多くの医師が言う『生きる』『延命する』とはただ心臓を動かすことを指しますが、大切なのはそれだけではない。患者が『生きたい』と言うときは、単に心臓を動かしたいわけではなく“自分の人生をやりきりたい”という思いがあるはず。その声にどこまで耳を傾けられるかが、死の迎え方を変える一助となります」(紅谷さん)
「延命治療」は安易に決めないで
愛知県のSさん(60代/女性)が振り返る。
「昨年亡くなった夫が脳出血で倒れたとき、医師から人工呼吸器をつけるかどうか判断を求められました。夫は日頃から“何かあっても、延命は嫌だ”と言っていたのですが、いざ意識を失った夫を目の前にしたら、延命を断ることなんてできませんでした。
でも結局、夫が目を覚ますことはなかった。あれは夫にとって本当に意味のある治療だったのか、それともかえって苦しむ時間を延ばしてしまったのか……どうするのが正解だったのか、いまも考え続けています」
「延命治療は嫌だ」──そう家族に伝えている人も多いだろう。だがそもそも、その定義は非常にあいまい。安易に拒否するのも、承諾するのも、後悔につながりかねない。永寿総合病院がん診療支援・緩和ケアセンター長の廣橋猛さんが言う。
「人工呼吸器から心臓マッサージ、点滴による水分補給や胃ろうまで、すべて延命治療に入ります。苦しむ時間が延びるだけの過度な医療となることもあれば、拒否したことでお別れが早くなることもある。どの段階で治療をやめるかは非常に難しいため、あらかじめ具体的に話し合っておくことはとても重要です」
看取りコミュニケーション講師で看護師の後閑愛実さんが語る。