ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その13」をお届けする(第1399回)。
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青島要塞攻略戦において日本側の総司令官神尾光臣陸軍中将が取った作戦は、兵員の損傷を最小限にして最大限の戦果を挙げた見事なものであった。この点については、『東京朝日新聞』も神尾中将の作戦を日露戦争の乃木希典大将の作戦とくらべて「猪突的の惡戰を試みることなく飽まで最近の攻城戰術に則り正攻法」を取ったと評価しているし、「敗軍の将」マイアー・ワルデック海軍大佐も朝日記者のインタビューに「(日本側の戦死者が)其實千七百の死傷に過ぎざりしは今更ながら戰鬪の巧なるに驚かざるを得ず」と答えている。
一方、アメリカの各紙が「ドイツ軍が勇戦敢闘した」ように書いているのは、反日感情に基づく一種の捏造報道だと私は考えるが、じつは博文館刊の戦場レポート『歐洲戰爭實記』を見ていくと、戦勝後は神尾中将の戦略あるいは功績に対する評価が次第に変化しているのだ。たとえばこんな具合に、である。
〈青島は陷落した。アツケなく陷落して了つた。旅順にも優る防備が施されてあると噂されたにも拘らず、總攻撃開始後僅かに一週間を支へるに過ぎなかつた。(中略)獨逸軍の死傷の極めて少くして、其の大部分が徒らに生命を全うして俘虜となつたのは、彼等が本氣で防守の責を盡さなかつた一證である。俘虜の或る者は明言してゐる、『我々は日本軍の突撃を今か今かと待つてゐた』と、殊勝氣にも或は聞かれるが、彼等の眞意は『いざや好き敵ござんなれ!』と待ち構へたのではなく、突撃さへして來て呉れゝば、早速降伏して怪我せぬうちに俘虜となり、命を助からうといふのであった。(中略)獨逸兵にして決死の覺悟で防いだならば、各炮臺の奪取せられるまでに、日本歩兵の少くとも十分の一は犧牲とならなければならなかつた筈である。獨逸兵が青島の防御に本氣でなかつたのは、敵味方の孰れも死傷の過少であつたので證明される。〉
(「青島陷落の後」澁川玄耳 『歐洲戰爭實記 第十號』掲載)
この澁川玄耳という人物、なかなかのジャーナリストで文筆家としても筆の立つ人間だった。
〈渋川玄耳 しぶかわ げんじ
1872─1926
明治─大正時代の新聞記者。
明治5年4月28日生まれ。東京法学院(現中央大)、国学院にまなぶ。熊本の第六師団法務官をへて、明治40年東京朝日新聞社社会部長にむかえられる。朝日歌壇を再設し、石川啄木を選者に登用。藪野椋十の筆名で随筆を連載した。のち国民新聞社などにつとめた。大正15年4月9日死去。55歳。佐賀県出身。本名は柳次郎。〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)
澁川は、熊本時代には当時第五高等学校の教師をしていた夏目漱石と親交があり、その縁を生かしてのちに漱石を朝日新聞の専属作家とした。『三四郎』『それから』『門』といった名作は朝日新聞連載であり、澁川が提供した生活の安定がこうした名作を生んだと言ってもいいだろう。
生活の安定と言えば、石川啄木を歌壇の撰者に抜擢したのもそうだ。澁川は「右」であり、啄木は「左」で思想的にはそりが合わないはずだが、啄木の才能を高く評価した澁川は啄木の第一歌集『一握の砂』にも藪野椋十の筆名で序文を書いている。それは思想信条にかかわらず才能を高く評価するということで、澁川の美点と言っていいだろう。
また、歌壇のみならず投書欄や家庭欄も一新し、朝日の発展におおいに尽くしたが、性格に狷介なところがあり社の幹部と対立し辞表を叩きつけて退社し、以後は主にフリーランスのジャーナリストとなった。日本初のフリーランスジャーナリストではないかという人もいる。一九一二年(大正元)に朝日を退社したときは、新聞の死亡広告欄の横に「自分の告別式はしない」と書いたとも伝えられている。相当ユニークな個性の持ち主だったのだろう。日露戦争のころから軍務の片手間に戦場報告を書いており、いわば戦場レポーターとしての筆にも定評があった。
つまり文才にも恵まれた優秀なジャーナリストなのだが、正直言ってこの『歐洲戰爭實記』に掲載された戦場ルポを、私は高く評価できない。どうしてそうなのかは、これまで述べてきたことでわかっていただけると思うが、まず青島要塞が「アツケなく陷落」したことを、「彼等(ドイツ兵)が本氣で防守の責を盡さなかつた(要塞を守る気が無かったから)」と断じているのが問題だ。