叱責を受けた武田がその直後のカメラテストで死に物狂いになって演じると、それを見ていた高倉さんが思わずふっと吹きだした。
「必死にお尻を押さえて走るぼくを見てがまんできなかったんでしょうね。健さんが笑ったのを見た監督はすかさず、“この愚かな若者をいまのように笑ってください”と言って即本番に突入しました。ぼくを叱ることで“隙”のある健さんを映し出すことも監督の狙いだったんです。実際に本番のその場面では、後ろから撮影した健さんの肩がわずかに震えていました」
4時間に及ぶ撮影が終了すると、高倉さんが武田に近づいてきた。
「“ぼくも一生懸命やってるけど何やったって見やしねえよ、あの人(山田監督)はお前しか見てないよ。お前ばっかかわいがられていいな”と笑った後“あの人、伸びない新人はしごかないらしいよ”と言うんです。これには泣きました。そこからはどれだけ怒られても辛抱しようと思いました」
撮影が終わった後も山田監督の指導の意味を考え続けたという武田が、当時の経験が生きていると実感したのは、1979年に始まった『3年B組金八先生』(TBS系)の撮影中だ。
「30人ほどの生徒と一緒の教室のシーンだけど15才のガキなんて人の話を聞きゃあしない(苦笑)。だけど無我夢中で話すと、心が通じたガキが1人、2人と泣き始めたんです。なんでぼくはこんなふうに必死に演じられるんだろうと思ったら、『幸福の黄色いハンカチ』での下痢のシーンがあったからだと気づいた。この世界で伸びるのは“走れ!”と言われたら、愚直に一心不乱に走る役者です。そのことを監督に教わりました。
ひたすら“違う!”と怒られ、明確な答えをなかなかもらえなかったのも勉強になりましたね。だから後輩に何か教えるときには、自分も答えを先に言わないようにしています」
【プロフィール】
武田鉄矢(たけだ・てつや)/1949年福岡県出身。俳優、歌手、作詞家。1972年にフォークバンド『海援隊』のボーカルとしてデビュー。1977年に山田洋次監督に見出され、映画『幸福の黄色いハンカチ』に出演し俳優としてのキャリアをスタートする。以降、個性派俳優として活躍。
※女性セブン2023年11月30日・12月7日号