「別の現場でも山田監督の『よーい、はい!』が頭の中に響いて、初心に返れるんです」。武田鉄矢(74才)が山田洋次監督(92才)から何度も「違う!」と怒声を浴びせられたのは、俳優として映画デビューした『幸福の黄色いハンカチ』の撮影中。27才にして芝居経験ゼロの新人が、高倉健さん(享年83)、倍賞千恵子(82才)、桃井かおり(72才)ら名だたる俳優と共演した不朽の名作においてだった。
「自分のフォークバンド・海援隊の人気が低迷するなか、なぜか山田監督の指名を受けて映画に出ることになりました。福岡から出てきた田舎者の青年を演じましたが、緊張でカッチンカッチンなうえ、山田監督の深い演出が理解できずロケ現場では、しごかれっぱなしでした」(武田・以下同)
最も苦労したのは、武田がナンパした女性(桃井)と北海道をドライブ中、お腹を下してティッシュペーパーの箱を手に取り、用を足すために草原を駆け回るシーンだった。
「撮影開始から1週間ほど経っていたし、それまでもずいぶん怒られたから多少は演技に自信が出てきていた。でもティッシュ箱を抱えてお尻を押さえながらどれだけ走り回っても、監督からは脳天からナタでも振り下ろすような声での『違う!』の一言が飛ぶばかり。何が違うのかわからず、もう大混乱でとにかく走ることしかできませんでした」
何十回にわたるリテイクののち、ついに山田監督が口を開いてこう一喝した。
「なぜ笑わそうとするんだ」
この言葉にハッとしたと武田が振り返る。
「笑いを取りにいく場面だと思っていたぼくに監督は、“好きな女の子の前で下痢になるのは悲劇じゃないか。きみは涙が出るほど情けない思いでティッシュ箱を抱えて走るんだ。それをやってごらんよ”と言いました」
思わぬ言葉に戸惑う武田に対し、山田監督は「いいかい、喜劇というのは演じる人が悲劇を演じないと、喜劇にならないんだ。渥美清さんは、寅さんが女性に振られるシーンでいつも涙をためているんだよ。だからお客さんが笑うんだ。きみが笑いながらやってどうするんだ!」と教え諭したという。
「芝居とはなんという世界かと思いましたね。そこまで深く人間を読むのかとショックを受け、27才のばかなりにしみじみと考えました」