日本を代表する俳優陣に「出てよ」の一言で出演を快諾させるのは、世の中にはびこる差別や理不尽、政治への怒りを原動力にメガホンを取り続ける91才の女性監督・山田火砂子さん。幼き日の戦争体験も、山田さんの強いモチベーションに繋がっているという。【全3回の第2回。第1回から読む】
多くの名優を惹きつけ、自ら現場でメガホンを取り続ける山田さん。その原動力とエネルギーについて問うと、「常に怒りです」と笑う。1932年に東京で生まれた山田さんは13才で敗戦を経験し、焼け野原になった東京を必死に逃げ惑った。
「東京大空襲では右も左も前も後ろも火が上がって、ものすごい爆風に吹き飛ばされそうになりながら必死に逃げました。ふと上を向いたらB29が空を埋め尽くし、地上のものはみんな焼けちゃった。その日からずっと、怒りが続いているんじゃないかと思う。
当時は女性差別もひどくて、戦前の女学校では『幼きときは父母に従え、嫁ぎては夫に従え、老いては子に従え』と“三従苦”を教えていましたし、お金持ちの家であっても、フロックコートを着てステッキを持ち胸を張って歩く男性の後ろに、子供を背負って両手一杯の荷物を持った奥さんがついて行くのが当たり前。少しでも遅れると『早く来い!』って亭主が偉そうに言う。
“人前で女の荷物を持つのは恥ずかしい”なんて当たり前に言われていた時代でしたが、どうして荷物を持ってあげないのよ!って子供心に腹が立って仕方がなかった」(山田さん)
障害を持って生まれてきた長女に生涯をかけて寄り添ってきた山田さんは、肌で感じた障害者への偏見をはじめとして、世の中に蔓延する差別に対しても怒りが湧き上がってきたいう。
「長女を連れて歩くと、周囲の子供が自分の母親に『あの子どういう子?』と指をさして聞いたり、近所の女の子が嫌がる長女の背中に砂をいれたこともありました。いろいろな宗教団体に勧誘されて、『これをすれば治ります』なんて言われて、将来が不安で娘と一緒に死ぬことも考えたほどです。実際、障害を持つ子供を抱えた母親の自殺は非常に多かった」
長女出産後に折り合いが悪くなった夫と離婚し、39才のときに映画監督の故・典吾さんと再婚。それを機に理不尽な世の中に対し「映画を作ればみんなの心が変わっていくんじゃないか」との思いを抱き、映画プロデューサーに転身して夫とともに映画作りに奔走した。山田さんの次女で、現在はプロデューサーとして母をサポートする上野有さんは幼い頃、母に手を引かれて現場を訪れたことを覚えている。