球史の常識を打ち破る活躍を見せてきた大谷翔平(29)は、「所属先選び」でも常識にとらわれない。年俸が高いか、名門球団か否か、といった要素には目もくれず、常に自らのこだわりを優先して決断してきた。だからこそ、“大谷争奪戦”はいつも、筋書きのないドラマとなる。
日ハムが手渡した50ページのレポートが決め手に
米・テネシー州ナッシュビルのリゾートホテルで開かれたウィンターミーティングで、全世界が「来季の大谷」の行方に熱視線を送った、その13年前──2010年に岩手・花巻東高に入学した頃から、大谷の「争奪戦」は始まっていた。
大谷の2学年上の幼なじみで、水沢リトル、一関シニア、花巻東高でバッテリーを組んだ先輩・佐々木大樹氏が語る。
「高1の頃からプロやメジャーのスカウトが視察に来ていましたね。卒業した先輩には(現ブルージェイズの菊池)雄星さんもいたからスカウトが姿を見せることは珍しくなかったし、翔平も全く気にしていなかったと思います。
翔平は1年の時から“メジャーに行きたい”と言っていました。すでに最速147キロを投げていて、卒業時の雄星さんに引けを取らないレベルでしたね」
そんな“高校球児・大谷”に早くから注目していたのが、当時ドジャースのスカウトだった小島圭市氏だ。スポーツ紙アマチュア担当記者が語る。
「入学して間もない練習試合に4番・ライトで出場した大谷が、外野から矢のような返球をするのを見て驚いたそうです。小島さんは肩の柔らかさ、腕の使い方からピッチャーとしての才能に惚れ込み、ドジャース球団にスカウティングレポートを送っています」
大谷が160キロを投げ、「怪物」と注目を集めたのは、3年生だった2012年夏の岩手県大会のことだが、それ以前からメジャー球団は大谷に目を留めていたわけだ。
「ただ、高校生の即メジャー挑戦はスカウトする側も難しい。マイナーリーグから始めてもらうことになり、“お金は出せないけど、どうしますか”という話になる。
そこで強行指名に踏み切った日本ハムは、高校生がメジャー挑戦した事例などを詳細に検証した50ページに及ぶレポートを大谷サイドに手渡し、これが入団の決め手になった」(同前)
日本ハムでの「二刀流」は賛否両論を巻き起こしたが、それが可能であることを自らの力で証明していく。その活躍により、メジャーのスカウト陣からさらなる熱視線が送られることとなった。