この国の政治が行き詰まり、政治家が国民の信を失った時、誰が言うでもなく田中角栄待望論が沸き上がってくる。「もし、角栄が生きていたらどうするだろうか」。今がそうだ。失われた30年の間に国力は衰え、少子高齢化は止まらない。高齢者は老後に不安を抱え、若者は将来に夢を持てない社会になった。それなのに政治は解決の処方せんを示すことができずにスキャンダルを繰り返している。岸田内閣の支持率は軒並み20%台まで落ち込んだ。
「角栄なら国民に新しい社会への夢を描いてみせるはずだ」──。
そんな期待を抱かせるのである。2023年12月16日は角栄没後30年にあたる。生前はロッキード事件で刑事被告人となり、金権政治家と批判されながら、死後もなお、政治家・角栄が国民に鮮烈な印象を残し続けているのはなぜか。田中内閣の総理秘書官を務め、『日本列島改造論』の執筆者の一人でもある小長啓一・元通産事務次官が語る。
「佐藤栄作長期政権に対し国民のある種の倦怠感が燻る中、田中さんは現状を打破して新しい風、新しい考え方をしようと日本列島改造論を掲げて登場した。総理になるかもしれない人が、こんな大胆なビジョンを打ち出したのは初めてだった。それが国民には新鮮に映り、喝采を得たのだろう」
時代の閉塞感を打ち破った政治家だった。
「列島改造論には前段階があった。田中さんは高等小学校卒業だったけれど、『学歴ではなく経験、知識が大切なんだよ』と言いながら、ルーティンの合間を縫って政策の勉強をコツコツと積み上げていった。当時、政治家の多くは『議員の仕事は国会での法案審議』と考え、法律を作ることは役人任せでしたが、田中さんは国民の声を拾い上げ、行政ベースには乗らない難しい課題でも自ら議員立法を成立させて解決していった。“役所ができない法律をオレがやる”というのだから、役所とは対立関係になることもある。それでも、田中さんは33本の議員立法を手がけた。この記録は破られていません。まさにフロンティアに挑戦する、民主政治家のモデルでした」(小長氏)
わかりやすい角栄の言葉には人の心をつかむ力があった。左派学生を前に自由主義経済をこうたとえた。
「子どもが10人おるから羊羹を均等に切る。そんな社会主義や共産主義みたいなバカなこと言わん。君、自由主義は別なんだよ。チョンチョンと切って、一番ちっちゃいヤツに、一番でっかい羊羹をやる。分配のやり方が違うんだ。大きなヤツには『少しくらいガマンしろ』と言えるけど、3~4歳の子はおさまらんよ。そうでしょう。それが自由経済」